花間草章――無善無悪説(伝習録上巻102条)その2
(薛侃が)いう、「そうしますと、(花や草などの客観的存在物には)善も悪もないのですか。」と。
(先生が)いう、「善も悪もないというのは(実践主体が)本来性のままに平静だということです。
善も悪もあるというのは、(実践主体が)身体に制約されて発動したとういうことです。
(だから、実践主体が)身体に制約されて発動しないことが、つまり、善も悪もないことであり、このことを至善といいます。」と。
(薛侃が)いう、「仏者も、善も悪もないといいますが、どのように違いますか」と。
(先生が)いう、「仏者は善も悪もないこと(本来性のままに平静であること)に執着して(発動しようとせず)、すべてのことに全く働きかけようとしないので、(これではとても)天下を治めることはできない。
聖人がいう善も悪もないとは、作為して好んだり悪(にく)んだりしないことにほかならず、(言いかえるならば)身体に制約されて発動しないということです。
しかし(発動自体を拒否するのではなく、本来性のままに発動して)『王道に遵(したが)い、極則に合致する』から、すっかり天意にかない、天地のはたらきを助けることになります。」と。
仏教でも無善無悪が説かれてますが、どう違いますか? という質問に王陽明が答えているのですが、正直よく分かりません。
「発動自体を拒否するのではなく、本来性のままに発動して」と、吉田氏は補足していますが、発動すること自体は否定しないのですね。
身体に制約されて発動しない=善もなく悪もない=至善
は大前提として、さらに
身体に制約されずに発動する=善もあり悪もある=至善
という図式が成り立つのでしょうか? 仏教ではそれは不可能だけど陽明学なら可能?
う~ん…
ちなみに「身体に制約される」というのは「気の動」の訳です。「本来性のままに平静」というのは「理の静」。
花間草章――無善無悪説(伝習録上巻102条)その1
私(薛侃)が花にまじる草を抜き取って、そこでいう、「天地では、なんとも善は育成しにくく、悪は除去しにくいものですね。」と。
先生(王陽明)がいう、「育成もしなければ排除もしないことさ。」と。
しばらくして(先生が)いう、「そんなふうに善悪を考えるのは、まるまる躯殻(身体)に制約されて発想したから、あやまつことになったんだよ」と。
私は意味が分からなかった。
(先生が)いう、「天地の生命力は、花も草も同じだよ。そこには善悪の区分なぞ、なんであろうか。
きみが花を観賞したいと思った時は、花は善いもので草は悪いものだときめこんでいたろうが、もし、草を用立てしたいと思ったときは、こんどは草を善いものだとみなすだろう。
これらの善悪とは、すべてあなたという主体者の好悪(の感性)がきめたことなのだよ。だからあやまりだということがわかるのだ。」と。
陽明学の創設者として著名な王陽明の語録「伝習録」。その上巻に収められてる一章からの引用です。吉田公平氏のご本から多少訳文をイジって拝借しました。
「花間草の章として有名な語録である」そうですが(110p)、はい勿論ワタシは読んで初めて知りました(笑)。善悪というものを改めて考えてみる上でうってつけかなって思いまして、これから全文引用してみて自分なりに突き詰めてみようとかいう試み。
さて、王陽明は 「天地の生命力は、花も草も同じだよ。そこには善悪の区分なぞ、なんであろうか」と断言してます。すなわち、弟子の薛侃の善悪の判断なぞは、所詮好悪によるもので、善も悪もないのだと。
うんうん、相対論ですな。自分にとって都合の良いときは善であり、悪くなると悪とみなされる、そんな相対的なものでしかないんだよと。これは分かりますよ。
「大東亜論 最終章」(小林よしのり)を読んだ
慕ちゃんが完全にセクハラ親父になってる件(→■)
ただでさえ造型が似通ってるのに性癖まで、あの龍神さまと合致してきてるじゃないですか~!
玄ちゃんは「母性を求めている」という理由でおっぱい星人になり果てているのですが、慕ちゃんも母性なんですかねえ。その割にはナナさんあんまり胸はないような…
と、こっちまでセクハラ的な発言になりそうですので前振りは終了。今回は「大東亜論」シリーズ最終作の感想です、くっそ眠いけど頑張ります。ちなみにブログのデザインをちょこちょこマイナーチェンジ致しました。
最終章とはいえ、残念ながら掲載誌の事情により「未完」で終了。全4巻ということと相成りましたが、私は第二部が一番好きです。その頃は渡辺京二やら橋川文三やらを読んでいた時期でしたので、いわゆる不平士族の反乱を描いた第二部を読めたのは実にタイミングが良かったです。 ちなみにその時の感想がこれ(↓)です。
この大東亜論シリーズを読んで一番驚いたのは、なんといっても玄洋社という右翼の源流とみなされている超コワモテ団体を生み出したのは、高場乱という女性だったことでした。これは本当に驚いたなあ。「日本は女ならでは夜の明けぬ国」ってマジですやん。でも男女平等ランキングでは110位なんですよね、解せぬ。
頭山満はこの女性のことを「無欲と親切以外に持ち合わせがない」と、絶賛していますが(これ以上の賛辞は恐らく地球上に存在しない)、おかげで玄洋社のイメージがえれえ変わっちめえやした。
そういえば第三部で、玄洋社の憲則が成立したエピソードが載ってましたが、当初は
第一条 皇室ヲ敬戴ス可シ
第二条 本国ヲ愛重ス可シ
第三条 人民の主権を固守ス可シ
だったものの、「主権」という言葉を政府が気に入らなくて、主権ではなく「権利」に変更されられたんですって。この第一条と第三条が対立するものではなく、すんなり同居してるのが面白いですね。
それはさておき、第三部では、その高場乱女史の死で終わってたのが哀しかったのです。孔子もそうでしたが、若い弟子たちに先立たれていくというのは師としては悲痛の限りですね。
渡辺京二の「神風連とその時代」では、神風連(敬神党)の思想的な祖始と位置付けられる林櫻園についての章が設けられてますが(「見神者」)、この人もまた一風変わった人ですね。
彼は弟子たちに対して、無用の博識をいやしみ、知識をつねに皇道の自覚と統一することを求めた点で厳格な導師であったが、その言動には凝滞することのない自由な、あえていえばアナーキーなほどの精神の運動が感じられる。彼の思考の奔放さには弟子たちもずいぶんとまどった気配がある。ある日藤崎宮に詣でて、境内の地蔵尊に一礼したのを弟子に見とがめられたとき、彼はこういいぬけて破顔したという。「日本においでになって日本をお護りになる以上は、仏様でも何でもおがまねばなりませぬ」。彼には洋物嫌悪などかけらもなく、明治になってからも白砂糖でも毛布でも「結構結構」といって平気で用いたということだ。 (「神風連とその時代」118p)
神風連といいますと、狂的なまでの排外主義みたいなイメージがありましたが、これまた見事に背負い投げを食わされましたよ。こういう人が師匠だったとは…やっぱ歴史って実際に当たってみないことには分らんもんなんですねえ。
と、アナーキーなほど自由度が高い櫻園ですが、日本に開国を迫る諸外国に対しては確固たる考えがありました。↓
それまで「攘夷」というのは狂的なアレルギー反応、もしくは討幕のための一方便くらいにしか考えてなかった自分には、この櫻園の主張は衝撃でした。思想としての攘夷があるんだというか、戦った上でしか真の独立は得られないという過酷な事実を突きつけられたと言いますか、とにかく衝撃でした。衝撃すぎて未完成で終わってますよ(笑)。
などと渡辺京二や橋川文三の諸作品により、神風連やら西郷隆盛やら北一輝やら中江丑吉やらで、てんやわんやしておりましたので、漫画という形で分かりやすく腑分けしてくれる「大東亜論」(靖国神社に祀られなかった武士たちの物語)は非常にありがたい作品でした。漫画は偉大だ。植木枝盛は最後まで好きになれなかったなあ。
大東亜論というタイトルから言って、大アジア主義について本格的に語る前に終わってしまったのは、とても無念なことでありますが、あとがきで軽くその後の展開について触れているのがわずかな救いですね。
昨年(2018年)は「明治150年」などと言われたが、特に保守を自称する者には明治を礼賛する者が多い。
だがそれは、単に「勝った」歴史だからである。大久保利通的な西洋覇道、弱肉強食の論理で礼賛しているだけなのである。
わしはそんな明治礼賛史観は支持しないし、かといって左翼が言うような、単に日本が侵略国になった歴史だとする自虐史観に与するつもりもないのだが、明治とは、日本が大切なものを喪失していった堕落の時代だと思っている。(「あとがき」234pより)
たとえば、内村鑑三のような思想を持った人を「大東亜論」ではどう描くつもりだったのかなあとか、興味は尽きないのですが、後はもう自分で想像していくしかないですね(笑)
最後に渡辺京二の「維新の夢」に収められている西郷隆盛論(「逆説としての明治十年戦争」)からの一節を引用して擱筆します。
己を愛さずともすむ心、それは己を羞じるぶこつな魂であるに違いない。内村鑑三はその感動的な西郷隆盛論のなかに次のような挿話を録している。「実に彼は他人の平和を擾(みだ)すことを非常に嫌つた。他人の家を訪ねても、進んで案内を乞はず、玄関に立つたまま折よく誰かが出てみつけてくれるまで、そこに待つてゐることがよくあつた程である」。彼の数ある逸話のなかで、私はこの挿話にだけほんとうにおどろく。しかしこういう人格は、古い日本人にとってはある意味ではなじみ深いものであった。私がおどろくのは私が現代日本人だからである。古い日本人にとってこのような人格はしたわしくはあっても、ことさらおどろくべきものではなかった。なぜならそれは伝統的な範型のひとつであって、そのような人格の形象はこの国の歴史において、少数ではあってもしばしば現れることがあったからである。(290p)
改めて「球詠」(マウンテンプクイチ)6巻の感想
全然お買い得じゃねえ…
某新古書店の店頭にあった自販機なのですが、めっちゃ定価やん! ビタ一文まけてないやん!
いくらなんでも、これじゃ騙されないよー、ということで前回の続きです。前振りだけで力尽きて終わるのが賽ノ目手帖のお家芸。
表紙は主将の岡田さんでした。いいぞいいぞ~。前回もお話した通り、めっちゃいいとこで5巻が終わってしまったので、ドキドキしながらページめくってましたよ。一応念のためですが、未読の方はご覧にならないで~!
目下のところ主人公の属する新越谷は、「おおきく振りかぶって」で言えば、桐青戦に該当する試合の真っ最中でありまして、要するに野球漫画で一番面白いところですね。強豪校(梁幽館)相手に、発展途上の我らが主人校がどこまで戦えるのか! 期待と不安で胸がいっぱいですよ。
正直、5巻を読了して「これは負けちゃうのかな…」と、若干敗退を覚悟してたのですが…(→■)
わああ、勝った~~!!!
5対3で逆転勝利ですよ。そりゃ水樹主将ばりにガッツポーズしちゃいますよ。というか、その顔はなんですか希さん。もっと喜んでくださいよ。
それはさておき、これでいよいよ柳大川越との再戦が見えてきましたね。守備が良くて、左のサイドスローの大野さんと右の速球派の朝倉さんのダブルエースを擁する学校なんですが、こういうチーム大好きです。練習試合の時に仄見えていた大野さんと朝倉さんの微妙な関係も掘り下げられそうですし、これは楽しみですよ。
梁幽館もとても良いチームでしたね。名将と言われてた栗田監督が、追い詰められた終盤、もっとやってくれると思ったんですけどねえ。試合を通じてマネージャーの友理さんの方が存在感ありましたぞ。
二遊間の白井高代コンビも好守備で苦しめられましたねえ。 何回ファインプレーやるんだよって、ことごとくチャンスを潰されて泣きそうになりましたよ。このシーンは別の意味で泣けましたが。
主将の中田さんも敬遠されても相手を気遣う気持ちの良い人で、一発でファンになりましたよ。そして観客にヘコまされる希さん可哀想。なんか一部で「野次がひどい漫画」って呼ばれてるみたいですね、球詠。
あと吉川さんがね…「ウォリャアッサー」と躍動する吉川さんが大好きなんですが、ここ読むのが辛かったです…2年生なのが救いですね。来年リベンジだ!
しかし、個人的に一番贔屓にしてる岡田さんは、一人だけ詠深さんに声が届いてなかったり、最近とみにネタ要員化してませんか? 面白すぎますよ、今回表紙なのに~。
いつしかクソレフトみたいな扱いされるようになったらイヤだぞ。
と、6巻も大変面白かったです。今大会最大の山場だったからなあ。読む方も力が入りますよ。アニメがどこまでやるのか分かりませんが、ここはっ、このシーンは是非ともアニメにしてくださいっ! 野球大好きだったのに、辞めそうになったこともあって公式戦初勝利なんですよ、この子。
シノハユでも、「競技をやる楽しさ」と「勝負の厳しさ」との葛藤が描かれようとしてますが、球詠はシノハユとはまた違った切り口でこのテーマに挑んでるような気がします、終わり。
過去の「球詠」関連記事
「球詠」6巻がもう発売されていたとか
新しく買った本棚に咲シリーズを収納したら、あっという間に予定していたスペースが埋まってしまったでござる。
これ以上入らないんで小林立先生、しばらく咲-saki-の新刊は出さなくて結構です。結構なわけあるかい。
と、ここ一ヶ月くらい、コツコツと部屋を片付けているのですが、整理してみて自分が「ドリフターズ」(平野耕太)の6巻を購入してなかったことに気が付きました。あれないぞ?
うっかり漫画喫茶で読了してしまって、なんかもう買ってしまった気になってしまったっす、迂闊なり賽の目。
改めて6巻と、桜井のりおさんの「僕の心のヤバいやつ」の2巻も購読しました。ヒロインさんの名前が、実写咲-Saki-でまこさんを演じた方と同じ名前で、主人公の名前が「京太郎」とか、なんか咲テイストをほのかに感じるぞい。気のせいって言うな! シンクロニティーだ!
桜井のりおさんは「みつどもえ」でその性癖は充分把握しておるのですが、その性癖を前提に「僕の心のヤバいやつ」を読んでますと、なんだかお尻がムズムズしてきますね。ヘンタイさんが描く極甘青春ドラマはなかなか凶悪なシロモノでございました。
そんでドリフターズですが、裏表紙にエレカシネタが入っててビックリしました。ちょうどエレカシにハマってましたので。しかもガストロンジャーかい。名曲だよなあ。エレファントカシマズ最高だぜ。これまたシンクロニティーなタイミングで不思議な感じでした。
しかし、6巻では豊久が「戦は笑うて死ぬるが勝ちじゃ」とか言ってましたが、なんでしょうかね、この昔の日本人の人生観は。
二十二日の朝から、熊本城守備兵あいてに戦闘に入った。協同隊の任務は地理不案内の薩軍を嚮導することであったが、挙兵にかける彼らの狂気にまがう激情はこの戦いの最初の日から発揮された。
野満俊太郎・富記の兄弟は、篠原国幹の大隊を嚮導して熊本城段山口に進んだ。薩軍が守備兵の猛射にひるむと見るや、富記が言った。「兄さん、今日は革命の初日だ。お祝いに二人で死んで見せよう」。兄弟は弾丸雨注のなかを突進し、城壁をよじのぼる。協同隊の同志たちと薩兵は奮起してあとにつづいたが、二人の姿は砲煙のなかに消え、あとは「兄さん、ここ、ここ」「富記、待て、待て」の声がわずかに聞こえたのみで、二人はついに還らなかったという。 (渡辺京二「協同隊と中津隊」より)
イカれてるぜ。正気のまま狂うのは薩摩の専売特許じゃないってことですね。二人が笑って死んだことは確かでしょうが、なんとなく羨ましいと感じてしまうのは何故なのでしょうか。
それはさておき、新しい本棚と大量在庫処分のおかげで、だいぶ部屋がすっきりしました。今まで積読積読アンド積読って状態でございまして、未読の本がこんなにあったんだって並べてみて腰を抜かしましたよ。凄いなあ、なんか面白そうな本がいっぱいあるぞ(自画自賛)。
と、このように自分で買った本を忘れてしまうと、こんなミスも犯してしまいがちで…
買ってあったんだ…
すっっかり忘れてましたよ。歳は取りたくないものですねえ。
「江戸の兵学思想」(野口武彦)という本を夢中になって読んでましたので、この際「孫子」にもちょっと目を通しておこうかいと、適当に古本屋で買ったんですが、もう購読済みだったとは…。読んでなかったぜ~。
荻生徂徠というと、儒学者のイメージしかなかったのですが(恥ずかしながら小林秀雄の「考えるヒント」でしか荻生徂徠の知識がないため)、兵学者としての一面もあったというのは驚かされました。小林秀雄は見事に儒者としての側面しか語らなかったなあ。
もともと徂徠は、自分の家系が物部につらなることにプライドを持っており、みずから物徂徠と号したくらいであった。(中略)してみれば徂徠の兵学好きは一種のアタヴィズム(先祖がえり)の所産だったのかもしれないが、それはともかく、幼児の徂徠が、「名を得たる物師(軍師)どもにも父までは多く交わり」という体験をしていたことの意味は、徂徠兵学思想の形成にあたって非常に大きいのである。 「江戸の兵学思想」(156p)
軍師のことを「物師」っていうのはなんかカッコイイな!
「大物見」とか、そういう意味合いだったんですなあ。と、そんな物師徂徠が、なぜ文禄・慶長の役で日本軍が敗れたかを考察するのですが、思えば長きにわたる戦乱で戦闘能力は過去最高潮に達したはずの日本軍が平和を満喫してた朝鮮中国連合軍に敗北を喫したのが、なんか昔から腑に落ちなかったんですよね。島津義弘とか小早川隆景とかいたのに。その謎を物師徂徠が斬る! 面白いなあ。
…とか言ってる場合じゃないんですよ!
「球詠」(マウンテンプクイチ)の6巻がもう発売されてるじゃないですかー。5巻の時は、なかなか発売されないもんだから、6巻も出るのはどうせ年明けてからでしょーとか甘く考えてましたよ。アニメ化決定ということで気合が入ってたんでしょうか。
5巻では強豪校との試合も終盤に入り、いよいよ雌雄が決するという一番いいところで終わってましたので、これはビッグサプライズですよ。これから正座して読みます!
さいのめはねんがんの特典を手に入れたぞ!
今頃気味の「ビースターズ」(板垣巴留)14巻感想(&今頃すぎるリクドウ感想)ネタバレ大アリ注意
チーズって、めちゃくちゃ美味しいですね(挨拶)。
ワタクシ、賽の目はなかなかの子供舌でございまして、高校までずっとボンカレーは甘口でしか食べられなかった恥ずかしい過去を持つ男であり、癖の強いチーズもなかなかに嫌いな部類に入る食べ物でした。
それがこの前、チーズはダイエットに向いてるという記事を拝見しまして(こちらなどから)、恐る恐る口にしてみたところ、まあ美味しいこと! チーズってこんなにおいしかったんですね。
しかして、チーズの凄さはただ美味しいだけではなかったのだ! 先日、部屋の片付けのために休日を丸一日潰してエンヤコラしておったのですが、その間、一度も外出することなく、このチーズだけで食事が事足りました。恐るべき腹持ちの良さよ。
さすがっすモッツァレラさん!
朝に2個食べて、お昼に2個食べて、さすがに夕食は…と思ったものの夜も最後の2個食べて就寝しました。これは便利。これから部屋に籠らなきゃならない事態が出来したら、事前にチーズを購入しとこうと思います。
ということで、あらたな武器を得た賽の目ですが、今回は2ヵ月程前に発売されたビースターズ14巻の感想です。前振りと本題が一切関係ないのが賽ノ目手帖(無印)の頃からの持ち味。そんな持ち味捨ててしまえ。
表紙は壮獣ビースターのヤフヤ様。のっけから始まったレゴシ君との対決が見物でした。「…ムカつくガキだな」と、天真爛漫に気に障ることを抜かすレゴシ君に腹を立てるヤフヤ様が面白かったです。
この2匹の対立はどうケリを付けるのかな~、と読んでたら、レゴシ君が牙を引っこ抜いてタマげましたよ。そこまでの覚悟だったのか!
この作者さんは効果的な見開きの使い方をしますねー。個人的に「リクドウ」(松原利光)の見開き具合もすばらだったと思ってます。
たとえば12巻で、「分かってんじゃんユカリ姉ェ~」と全然分かってないセージに、お姉さんがニッコリと笑って…あ、これはお姉ちゃんなんかやるな?と思ってページをめくったら、
これモンですよ。
や、やり過ぎですよユカリさん! これからすぐ試合なんですよ!? ビックリしたなあもう~。
と、このように何度もリクドウには驚かされました。ちなみにセージとユカリさんは姉弟なのですが、セージはというと(→■)
“結婚”
出来ね~かな?
…姉弟(オレら)…
お姉ちゃんと結婚したいんかい! 許されるのは叔父姪までですよ(by慕ちゃん)。このいきなりのレディコミ展開に、こっからどうなってしまうんだろうと、試合よりもそっちの方が気になってしまったものですが、この禁断の愛の行方は…そう来たか~でした。
思えば、セージの物語のバランスを壊しかねない破格の強さとか、最初からこういう結末を想定して生まれたキャラクターだったんだなと。計算通り!ってやつですよ。
なんと言いましょうか、ようやっとリクくんが自分がボクシングする意義(すなわち自分の人生の意味)を見出したセージとの試合で、こういう残酷なオチを持ってきて悶絶させるとか、感情のジェットコースターとでも申しましょうか、久々に漫画読んで作者の手の平の上でコロッコロ転がされてしまった感がありましたよ。ええい悔しいやら面白いやら。
はなはだ主観的な意見なのですが、このセージとユカリさんの物語がリクドウという作品におけるクライマックスだったと思ってます。勿論、リクドウ(主人公リクの道)という物語はまだまだ続いているのですが、物語としてはここがピークだったのではないかと。
キャラクター的には柳涼太郎さんが大好きでしたので、ワタシ的には17巻が白眉なんですけどね。
おまけ漫画で、リクくんが柳さんと蕎麦屋さんで一緒に蕎麦を食べる話の後日譚が描かれてますが、リクドウの巻末のおまけ漫画ではこれが一番気に入ってます。柳さんは良い人だなあ。
ええと、無理くりにリクドウ話を挿入してすみません。ヤフー時代から引っ張ってたネタなんです!
もうリクドウはとっくに連載終了してますよ。書くタイミングを完全に逸しちゃいましたよ。どさくさに紛れで本当にごめんなさい。
さて、本題に戻ってビースターズなんですが、ヤフヤ様と別れた後、浮気現場を目撃して(誤解)、やさぐれた感のあるハルちゃんのその後が描かれてますね。
しかし、「ハルちゃん」といい、そのお友達の「アコちゃん」といい、そこはかとなく咲-Saki-阿知賀編 episode of side-Aの匂いが感じられますね。そうか?
それにつけても咲本編206局でのカラー扉絵はとても良かったなあ。
そんな龍神様はさておいて、またしても異種族間の恋愛の厳しさを思い知らされるハルちゃんでしたが、もしかしたらこれでレゴシ君とハルちゃんの関係も終わっちゃうのかなーと思いきや、おもくそ予想を裏切られましたよ。この作者も読者を手の平の上で転がしてくれるよなあ。悔しい!
レゴシ君が順調に傷ついてより強く覚悟を決めてゆくのに対し、ハルちゃんはちょっと付いていけなくなるのかな?とか小賢しい展開予想してすみませんでしたな衝撃展開でした。
草食動物と肉食動物がともに同じ社会で暮らしていくというのも、なかなか前提が無茶なのですが、その前提を元に肉食動物が草食動物を食べることをただ「悪」と単純に言い切ってよいものかと、これはこの作品を読むたびに考えさせられますね。
善と悪というものを、もう一度よく考えてみなくっちゃ、と思わざるを得ないのですが、ふとこの読後感はあの作品に似てるなあと唐突に思い出しました。
「猫の首」というなにやら恐ろし気な話ですが、実際怖いです(笑)。でもビースターズがお好きな方は、一度読んでみてはいかがでしょうと薦めたくなるような読後感です。終わります。
シノハユ71話「相生」感想
閑無ちゃんがエアマスターの崎山香織を地で行ってる件
画像は先月のものなんですけどね。無意識のうちに閑無ちゃんを下に見ていた慕ちゃんに強烈な一言。そりゃこんなコラだって作られますよ(→■■■■■■)。作成されたのは結構前だけど! みんな崎山香織が大好きすぎる。個人的にこのシーンはエアマスター史上、いや漫画史上屈指の名シーンだと思ってます。
そんな一体何回トバされれば気が済むのさな閑無ちゃんですが、いよいよ自身の限界を悟り始めたらしく…
私はあいつらみたいな特別なものが何ひとつない
これが才能がないっていうことなのか
どうしたらあいつに
慕に追いつける
切ない…耳が良いって設定は、なんらかの能力開花に繋がりませんかね?
基本無敵だったあの頃に、果たして閑無ちゃんは戻れるのでしょうか。
絶対に(全国へ)行こう!という、慕ちゃんとの「約束」を、できればユマチュー在籍時に果たしたいものですね。
そして慕ちゃんも慕ちゃんでなにやらお悩みなようで…
「勝負」と「楽しさ」は両立しうるのかという難しい問題。
最近(でもないけど)、慕ちゃんがなんでもないことで涙を流すシーンが散見され、どうしたんだろうと少し心配だったのですが、「勝たなければいけない」というプレッシャーから情緒がいささか不安定になってたかもしれませんね。
「麻雀って楽しいよね」というテーゼは、シノハユのみならず咲-Saki-シリーズ全般を通じての基本テーマだと思うのですが、それを恐らく一番体現してるであろう慕ちゃんが中一の段階で早くもこのジレンマに突き当たってしまったのが少し意外でした。
そういえば高橋さんもおまけ漫画で似たようなことで悩んでましたね。
慕ちゃんは咲本編で世界一位になることが暗示されてるので、慕ちゃんが世界王者のニーマンと対戦するのは、思ってたよりもずっと早いのかもなあと思ったり思わなかったり。
近頃の咲さんは、麻雀を楽しむよりも姉に思いを伝えることに囚われていて、麻雀が「目的」でなく「手段」になってしまっている感がなきにしもあらずですので、咲さんと慕ちゃんの今後の麻雀に対する姿勢は気になるところです。ネリーという麻雀が手段以外の何物でもない打ち手と咲さんがどう戦うのか楽しみですね。
最後に…玲奈ちゃん、そのドヤ顔はなんなん? こんなん笑ってまうわ。