花間草章――無善無悪説(伝習録上巻102条)その1
私(薛侃)が花にまじる草を抜き取って、そこでいう、「天地では、なんとも善は育成しにくく、悪は除去しにくいものですね。」と。
先生(王陽明)がいう、「育成もしなければ排除もしないことさ。」と。
しばらくして(先生が)いう、「そんなふうに善悪を考えるのは、まるまる躯殻(身体)に制約されて発想したから、あやまつことになったんだよ」と。
私は意味が分からなかった。
(先生が)いう、「天地の生命力は、花も草も同じだよ。そこには善悪の区分なぞ、なんであろうか。
きみが花を観賞したいと思った時は、花は善いもので草は悪いものだときめこんでいたろうが、もし、草を用立てしたいと思ったときは、こんどは草を善いものだとみなすだろう。
これらの善悪とは、すべてあなたという主体者の好悪(の感性)がきめたことなのだよ。だからあやまりだということがわかるのだ。」と。
陽明学の創設者として著名な王陽明の語録「伝習録」。その上巻に収められてる一章からの引用です。吉田公平氏のご本から多少訳文をイジって拝借しました。
「花間草の章として有名な語録である」そうですが(110p)、はい勿論ワタシは読んで初めて知りました(笑)。善悪というものを改めて考えてみる上でうってつけかなって思いまして、これから全文引用してみて自分なりに突き詰めてみようとかいう試み。
さて、王陽明は 「天地の生命力は、花も草も同じだよ。そこには善悪の区分なぞ、なんであろうか」と断言してます。すなわち、弟子の薛侃の善悪の判断なぞは、所詮好悪によるもので、善も悪もないのだと。
うんうん、相対論ですな。自分にとって都合の良いときは善であり、悪くなると悪とみなされる、そんな相対的なものでしかないんだよと。これは分かりますよ。