賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

花間草章――無善無悪説(伝習録上巻102条)その5

(薛侃が)いう、「好色を好むが如く(善を好み)、悪臭を悪(にく)むが如く(悪を悪む)ということは、(心が巳に発動したのですから)どうして『意』ではないのですか。」と。

(先生が)いう、「(もちろん『意』であるが)誠なる意であって、私意ではない。誠なる意とは天意にかなうということにほかならない。天意にかなうことだけれども、いささかも故意を働かせない。だから怒りや喜び楽しみなどがあると、(それにとらわれて、心は)正しさを得られないのです。(私意・故意が全くなく)からりとして大いに公であること、これこそ人間の本来のあり方なのです。このことがわかることが、未発の中がわかるということなのです。」と。

孟先生がいう、「先生は『草が邪魔ならば、天理として抜き取るべきだ』といわれましたが、それならなぜ(さきの「草は抜き取る」のが)身体に制約された発想なのですか。」と。

(先生が)いう。「この点は君自身が自分で体認することだ。きみが草を抜き取ろうとするのはどんな『心』なのかね。周茂叔が窓辺の草を抜き取らなかったのはどんな『心』だったのかね。」と。

 

 

だらだらと続けてすみません、これで終わりです。早い話が最後の言葉になんか感動してしまって、この章を取り上げたくなったのです。

 

注にはこのように解説されてます。

 

周茂叔 周敦頤の字が茂叔。『程氏遺書』巻三「明道先生曰く、周茂叔は窓前の草を除去せず。之を問えば、自家の意思と一般と云えり。」による。

 

あの草は自分と同じだから」ってことらしいですけど、ここまでくると儒学なんだが仏教なんだかよく分からんっすね。

 

陽明学を批判するに「仏教が入り込んでるからダメだ」というのが当時あったようですが。令和元年のこの時代、「そんなのどうでもいいじゃん」としか言えないですよね。

 

それはさておき、最後に「どう違うのん?」と質問した孟源さんに対し、著者の吉田公平さんは解説で「理解の早かった人ではない」と一刀両断されてますが、はい、私も理解が遅い男です。

 

・天理として、邪魔な草は抜き取る。

・あの草は自分と同じく天理として生えているから抜き取らない。

 

明らかに矛盾しているように見えます。要は『心』の問題なのだ、ということは分かるのですが、たぶん何か根本的なところでワタシが理と心の理解が間違ってるんだろうなって気はします。心即理…難しい。