花間草章――無善無悪説(伝習録上巻102条)その2
(薛侃が)いう、「そうしますと、(花や草などの客観的存在物には)善も悪もないのですか。」と。
(先生が)いう、「善も悪もないというのは(実践主体が)本来性のままに平静だということです。
善も悪もあるというのは、(実践主体が)身体に制約されて発動したとういうことです。
(だから、実践主体が)身体に制約されて発動しないことが、つまり、善も悪もないことであり、このことを至善といいます。」と。
(薛侃が)いう、「仏者も、善も悪もないといいますが、どのように違いますか」と。
(先生が)いう、「仏者は善も悪もないこと(本来性のままに平静であること)に執着して(発動しようとせず)、すべてのことに全く働きかけようとしないので、(これではとても)天下を治めることはできない。
聖人がいう善も悪もないとは、作為して好んだり悪(にく)んだりしないことにほかならず、(言いかえるならば)身体に制約されて発動しないということです。
しかし(発動自体を拒否するのではなく、本来性のままに発動して)『王道に遵(したが)い、極則に合致する』から、すっかり天意にかない、天地のはたらきを助けることになります。」と。
仏教でも無善無悪が説かれてますが、どう違いますか? という質問に王陽明が答えているのですが、正直よく分かりません。
「発動自体を拒否するのではなく、本来性のままに発動して」と、吉田氏は補足していますが、発動すること自体は否定しないのですね。
身体に制約されて発動しない=善もなく悪もない=至善
は大前提として、さらに
身体に制約されずに発動する=善もあり悪もある=至善
という図式が成り立つのでしょうか? 仏教ではそれは不可能だけど陽明学なら可能?
う~ん…
ちなみに「身体に制約される」というのは「気の動」の訳です。「本来性のままに平静」というのは「理の静」。