賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

そういえば11月2日に木村カエラのライヴに行ってきたんですよ(未完成)

アヒンサー!(挨拶)

 

インド語かなんかで「おはよう」という意味らしいですね。

などと、水樹キャプテンばりにいい加減なことを言ってしまいましたゴメンナサイ(本当はコチラ)。

先日、最新の35巻が出たばかりのDAYSですが、今頃になってアニメ化もされた作品にハマっちゃって恥ずかしくないのかと言われれば、はい恥ずかしくないです!

だって「振り向くな君は」はリアルタイムでハマってましたし!

8年前のこの記事なんか読んでますと、未練タラタラな調子が当時のことを思い出してなんだかこそばゆいですよ。

 


なんでそんなにチャンピオンで連載させたがる。

 

と過去の自分に問い詰めたい気分ですが、千手さん好きだったなあ。そんな彼もDAYSで元気に登場してまして嬉しい限りですよ。今思えば、千手さんって咲-Saki-の天江衣さん的なキャラだったんだなって。

 

最新刊で主人公のつくし君が初ゴールを決めましたが、単行本にしてのべ35巻、年数的には7年ということになるのでしょうか。結構いいシュート打ってたのにずっと外し続けてましたね、そういえば。

 

梁山戦での「前に進むだけだ」は、たぶん今年一番漫画で感動したシーンでございましたが、ちょうどブログの進退も含め、色々と迷ってた時期でしたので、ずいぶんと背中を押されました。もう迷わない!

 

 

 

U2.comから入会特典が届いた

f:id:sighnome:20191125180809j:plain

 

やったじぇ!

これはなかなか、日本公演へ向けての良い予習となりそうです。Song For Someone演ってください!

 

そんな限りなく実現不可能な要望はさておき、思わぬ贈り物となったAhimsaはiTune Storeで購入して毎日ヘビロテで聴いてますよ、ワンツースリーフォー!

 

This is an invitation

To a high location

From someone

who wants to be loved

This is a meditation

On your radio station
If you like it, you can sing along

 

ここのくだりがやっぱいいなあ。ここだけ何度でも聴きたくなります。これをさいたまスーパーアリーナで大合唱できたら最高ですね。

 

最近は、最寄り駅から二駅ほど手前の駅で降りて30分くらい歩いて会社に赴いているのですが(ささやかな有酸素運動)、その際ヨシュア・トゥリーの歌詞をプリントアウトした紙をポケットに入れて歩きながら歌詞を確認したりしております。シンガロング強化は欠かさないぞ~「球詠」のヨミさんっぽく)。

 

しかし、「球詠」を読んでると、なんか無性に体を動かしたくなるんですよね。ああ楽しそうだなあって。俺も「ひいいいい」って言いながら練習したい!

 

ほんとは帰らずにずっと練習していたいくらい」とまでヨミさんはのたまってますが、こういう発言が実際の部活の練習から省みてリアリティーに乏しいことは合点承知之助。リアリティーとかどうでもいいんです。

 

ということで、ダイソーでこういうのとか買ってきたりもするんですよ。なんだこれって? ほらアレですよアレ。腕立て伏せをする時に使うヤツ。これを使えばより体を深く沈められるので負荷をかけやすいんですよ。

 

よっしゃ、さっそくやるぞい! いーち、にーい…

 

 

 

f:id:sighnome:20191126092126j:plain

いいとこ10回くらいで死にますね。

 

と、こんな感じで、なんちゃってアスリートごっこに勤しんでる毎日ですが、ライヴなどとんとご無沙汰で体がすっかり鈍り切ってる状態ですので、U2が日本に来る頃には2時間半のライヴに耐えらえれる体にしておきたいなあと願う今日この頃であります、終わり。

Ahimsa(U2&A.R Rahman)

U2 + A.R. Rahman - Ahimsa (lyrics)

 

 

突如発表されたU2のニューシングル。ああビックリした。

「~~ation」を連呼するところなどはBADを彷彿する歌詞で、それだけでも興奮しますが、このインディーな曲調がすばらですね。こういうの大好物です。Smileとか大好きですよ。

 

U2 - Smile

 

 

 ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾンが発表された時、その異教的と言いますか非西洋的と言いますか、アフリカの音楽に触発された音楽性に、これはまたU2が新しい領域に踏み込むんじゃないかと、不安と期待がありましたが、残念ながら2010年代に出された2枚のアルバムはそういう方向性には行くことなく、ちょっと勿体ないなあと思ったものでしたが、この方向性は完全にあきらめてたわけではなかったのですね。

 

U2は現在、オーストラリアで公演中ですが、その後シンガポールを経由して日本へ。そして韓国・フィリピンで公演した後、インドはムンバイでフィナーレを飾るのですが、このタイミングでこういう曲を発表するってイチ東洋人として嬉しいサプライズであります。

インドのイメージってジョジョ第三部での珍道中を反射的に思い出してしまうのですが(古過ぎィ!)、U2がインドでどんなライヴをやってのけるのか楽しみですね。Smile演ってくれないかなあ。

 

ということでご無沙汰でした。いつの間にやら2週間後にはU2の日本公演ですよ。本当にあっという間ですね。恐らくこれがU2を観られる人生最後の機会だと思いますので、悔いのないよう、今からしっかり肚を括ってライヴに臨みたいところです。

 

 

f:id:sighnome:20191123172122j:plain

そこまでじゃなくていいです…

 水樹キャプテンげきおも! あ、勿論コラです。

補足:「道徳を基礎づける」(フランソワ・ジュリアン)より

 

 孟子の考えでは、道徳性は、気の邪魔をするのではなく、逆に、気を解放し、促進する。

なぜなら、気は、利己主義によって閉じ込められると、その中で弱まっていくが、道徳性の効果を得ると、高まり、限りなく広がっていくからだ。

孟子は言う。道徳性によって、気は、萎縮するのとは反対に、「至大」、「至剛」となる。だからこそ、道徳性は、わたしたちをストイックに不動にする。

「直(ただ)しさによって養い、害されることがなければ」、波がたえず「広がる」海のように、気は「天地の間を満たす」に至る。

気は、「道徳性と一緒にあれば」、溢れんばかりだが、そうでなければ、心に「不満足」があるわけだから、萎える(其為気也、配義与道、無是餒也)。

もう一度、孟子は注意を喚起する。気の開花は、目的として立てられ、計画された結果として得られるような、目指された対象ではありえない

 植物を引っ張って生長させられないように、人は気の開花を故意に進めることはできない。

とはいえ、植物の周りの雑草を抜き取るだけで、その植物が自然に発育できるのと同様に、ただ「義を集める」だけで、気はおのずと開花する。

さらに言えば、この帰結は、有利な条件設定をしておくことで間接的に得られるもので、孟子が述べるように、襲って「取」るものではなく(是集義所生者、非義襲̪而取之也)、変化して成熟するものなのである。

 

 (中略)この変化を最後まで辿ると、無制約者(←「天」とか「神」とかそんな感じby賽の目)も、もはや純粋な観念ではなく、感覚できるものになる。

それは、神秘的な直観や、忘我によってではない。単に拡充の効果によってであり、そのエネルギーは道徳性から自然に与えられたものである。

道徳的な人格は、その個別性の諸限界を越えて、無限定な者に開かれ、「天地の間を満たす」(プラグマティズムなミスティシズム?by賽の目)。

あるいは、孟子が別のところで言うように(尽心上十三)、「上にも下にも広がり、君子は天地と流れを同じくする」。

西洋において、この現象を最もうまく説明したのは、ルソーである。ここでルソーの定式が『孟子』の定式と触れ合うことに驚くことはない。

エミールを躾るにはどうすればよいのか。それは、「彼の心にみなぎる力が働きかけることのできる対象、心をのびのびとさせ、他の存在者に広げ、自分の外の至るところで自分を再発見させる対象」を、エミールに与えてやるだけでよい。

その反対に、「心を締めつけ、心を集中させ、人間の自我を緊張させる対象は、注意して遠ざける」べきである(『エミール』中、六九-七〇頁)。

 

 テーマの立て方は、両者とも同じで、道徳的な人格を広げることは、その利己的な偏狭化と対立する、というものだ。

その時、エミールは、「わたしたちを自分をこえたところに広げ、満ち足りていてなお余りある活動力を、他のところに差し向けるような、力の状態」を感じるだろう(『エミール』中、八一頁)。

さらにルソーは、「あり余る感受性」とも述べているが、わたしには、それが、「浩然の気」という翻訳不可能な表現を最もうまく表していると思われる。

 

  道徳を掘り崩すことをあれほど喜んでいたニーチェまでもが、ここで合流する。そしてこれは見かけほど意外なことでもない。

ニーチェは「利他主義」を責めるが、それは「利他主義」が、西洋のイデオロギー的な伝統において、「憐れみ」を損なってきた痛苦主義(苦痛の礼賛)に甘んじているからだし、良心(転倒した疚しさ)や、道徳主義の命令と拘束を強調しすぎているからである。

しかも、ニーチェは、生の観点から見ると、「利己主義」もまた「誤りである」と認めているのである(『権力への意志』第四章第六一三節)。というのも、生そのものは、躍動して、無制約者に向かっているからだ。

そして、無制約者は、可知的世界での抽象的な観念ではなく(この点でカントに反する)、経験されるものである(ここであらためて、ストイシズムに近づく)。ニーチェは続ける。「『我』と『汝』を乗り越えよ。宇宙的に感じよ」。少なくとも、この定式は、『孟子』に呼応している。(295~298p)

 

 

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

 

 

こちらの本も、わりかしワタシの知的レベルをオーバーしてるのですが、四苦八苦しながらも読んでいたのは副題の通り、「孟子vsカント、ルソー、ニーチェ」という東西対決に惹きつけられたからです。

 

孟子よりも西洋の解釈の方がピンとくるというのは、イチ東洋人として恥ずかしい話なのですが、「浩然の気」などという言葉もルソーの文脈で解釈した方が理解が早いですね、合ってるかどうかはさておき。

 

野口武彦さんの「王道と革命の間」という本を読んで孟子の面白さといいますか、日本に与えた影響力の深刻さというものを教えてもらったものですが、令和の時代にあっても、この孟子の魅力(危険さ)はまだ保持しうるんじゃないかとも思います。勿論、ナマに直接的にではなく、あくまで回顧的な形でしょうが、なにはともあれ、一度はこの門をくぐらないと民主主義もへったくれもないんじゃないかって気がしますよ。

 

最後に「王道と革命の間」の最後の言葉を。あ、陽明学孟子の関係については、第4章「江戸陽明学と『孟子』」の中で述べられており、大変勉強になりました。

 

国体論及び純正社会主義』の最終章は、その著者(北一輝)が『孟子』に即して時代最大の問題を論じたまさにその故に、江戸時代このかたの「王道」と「革命」の問題にかかわる創造的思考の棹尾を飾ったのであった。北における「王道」としての天皇制、「楽土」としての社会主義の合歓の夢の行方は杳として知れない。まこと、三島由紀夫の言葉どおり、「北一輝支那服を着た瘦躯」は、昭和史に投げかけられた「不吉な映像」であった。その「不吉な映像」の暗影は、北の思想の総体をつちかった明治啓蒙主義社会進化論社会民主主義等々さまざまな波長の光背にいろどられている。その一つのもっとも遠い光源として、『孟子』七書は、疑いもなく近代日本に最後の残照を投げかけていたのであった。

 

王道と革命の間―日本思想と孟子問題

王道と革命の間―日本思想と孟子問題

 

 

 

花間草章――無善無悪説(伝習録上巻102条)その5

(薛侃が)いう、「好色を好むが如く(善を好み)、悪臭を悪(にく)むが如く(悪を悪む)ということは、(心が巳に発動したのですから)どうして『意』ではないのですか。」と。

(先生が)いう、「(もちろん『意』であるが)誠なる意であって、私意ではない。誠なる意とは天意にかなうということにほかならない。天意にかなうことだけれども、いささかも故意を働かせない。だから怒りや喜び楽しみなどがあると、(それにとらわれて、心は)正しさを得られないのです。(私意・故意が全くなく)からりとして大いに公であること、これこそ人間の本来のあり方なのです。このことがわかることが、未発の中がわかるということなのです。」と。

孟先生がいう、「先生は『草が邪魔ならば、天理として抜き取るべきだ』といわれましたが、それならなぜ(さきの「草は抜き取る」のが)身体に制約された発想なのですか。」と。

(先生が)いう。「この点は君自身が自分で体認することだ。きみが草を抜き取ろうとするのはどんな『心』なのかね。周茂叔が窓辺の草を抜き取らなかったのはどんな『心』だったのかね。」と。

 

 

だらだらと続けてすみません、これで終わりです。早い話が最後の言葉になんか感動してしまって、この章を取り上げたくなったのです。

 

注にはこのように解説されてます。

 

周茂叔 周敦頤の字が茂叔。『程氏遺書』巻三「明道先生曰く、周茂叔は窓前の草を除去せず。之を問えば、自家の意思と一般と云えり。」による。

 

あの草は自分と同じだから」ってことらしいですけど、ここまでくると儒学なんだが仏教なんだかよく分からんっすね。

 

陽明学を批判するに「仏教が入り込んでるからダメだ」というのが当時あったようですが。令和元年のこの時代、「そんなのどうでもいいじゃん」としか言えないですよね。

 

それはさておき、最後に「どう違うのん?」と質問した孟源さんに対し、著者の吉田公平さんは解説で「理解の早かった人ではない」と一刀両断されてますが、はい、私も理解が遅い男です。

 

・天理として、邪魔な草は抜き取る。

・あの草は自分と同じく天理として生えているから抜き取らない。

 

明らかに矛盾しているように見えます。要は『心』の問題なのだ、ということは分かるのですが、たぶん何か根本的なところでワタシが理と心の理解が間違ってるんだろうなって気はします。心即理…難しい。

花間草章――無善無悪説(伝習録上巻102条)その4

(薛侃が)いう、「善悪は、全く(客観的)存在物とは関係ないんですね」と。

(先生が)いう、「もっぱら主体者のあり方いかんだ。(心=主体者が)天理にかなうことが、善であり、(心が)身体に制約されて発動するのが、悪である。」と。

(薛侃が)いう、「とどのつまり、存在物は(もともと)善悪などないのですね。」と。

(先生が)いう、「人間(心)だってこうなのだから、存在物だってそうだよ。世間の学は全くこのことがわかっていない。主体(=心=人間)を疎外して外物をおいまわし、『格物』の学問を誤解して、一日中かけまわって外に(理を)求めているが、義を(後天的に)取得することをやってるだけのことで、生涯かけて実践しても著(あき)らかにならず、習得しても明察しないさ。」と。

(薛侃が)いう、「好色を好むが如く(善を好み)、悪臭を悪(にく)むが如く(悪を悪む)するというのは、どうですか。」と。

(先生が)いう、「それこそがまさしく、ひたすら天理にかなうことです。天理とは、本来こうあるべきなのです。天理とは、本来こうあるべきなのです。もともと作為して好悪を発動する身勝手な考えなどではありません。」と。

 

 

間を空けてしまい、申し訳ありません。引き続き花間草を続けます。

とうとう出てきましたねえ、「色を好むがごとく徳を好む」。徳を得ることをたとえるに、好色をもってする孔子の態度に、古来より物議を醸してきたようですが、小林秀雄はこんな風に言ってます。

 

 

(中略)この考えは、「論語」に現れた大変重要な考えなのであって、「吾未ダ徳ヲ好ムコト色ヲ好ム如クナル者ヲ見ズ」という言葉が二個所に出て来るが、同じ言葉に、一個所では「巳ヌルカナ」(どうにも仕方がない)と孔子は附言しているのである。

色を好むということは、自発的な純粋な動きだが、そういう行為の自発性と純粋性とを、孔子は徳行において求め、それが何処にも発見出来ないことを嘆く。

孔子は、道を論じ、仁を解く者の、自ら知らない自己欺瞞が、いかに深いものであるかをよく知っていた。

真理を言い、正義を解き、国家の為、社会の為を思って、己れを殺していると自ら信じながら、その動機に不純なものをわれ知らず持っている人が、いかに多いかを看破していた(郷原は徳の賊なりー!by賽の目)。

孔子は、そういう徳を好む自称道徳家より、色を好む平凡人をよしとする(すばら!by賽の目)。彼は、徳を言って、巧言を離脱することがいかに困難であるか、道徳とはいかに危険な仕事であるかを、はっきり知っていた。それが彼の思想の根本の力である。(小林秀雄論語」より)

 

 

 

やっぱ小林秀雄の文章はカッケーなあ。

それはさておき、性欲などまさに躯殻(身体)に制約された作為なのではないかと思ってしまうのですが、孔子も、また王陽明も「そうではない」と否定するのでございます。徳を求める行為に、性欲のような自発性と純粋性を要求する。スピノザニーチェにも通じるような考え方ですが、この分かりにくさがまた面白いですよね。

花間草章――無善無悪説(伝習録上巻102条)その3

(薛侃が)いう、「草が、もはや悪ではないのなら、草は抜かなくてもよいのですね。」と。

(先生が)いう、「そういう考えこそが、むしろ仏者や老荘の徒の意見なのだ。草がもし邪魔なら、あなたが抜き取っても少しもかまわない。」と。

(薛侃が)いう、「そうならば、これもまた作為して好んだり悪(にく)んだりしたことになりませんか。」と。

(先生が)いう、「作為して好んだり悪んだりしない、ということは、好んだり悪んだりすることを全くしないということではない。これでは知覚のない人間ではないか。

作為しない、というのは、好んだり悪んだりする(感性の活動)が、(本来性のままに発動するから)すっかり天理にかなうことであって、そこには先見を一切介入させないことである。

こうするからこそ、それこそ好んだり悪んだりしないことと同じなのです。」と。

(薛侃が)いう、「草を抜き取るには、どのようにすることが、すっかり天理にかない、先見を介入させないことになりますか。」と。

(先生が)いう、「草が邪魔ならば、天理として抜き取るべきだから、抜き取るまでのことです。たまたますぐに抜き取らなかったとしても、心を煩わしたりしません。もし、いささかでも(抜き取らねばならぬ、と)先入観にとらわれたら、それこそ心(実践主体)の本体は煩わされることになり、さまざまに身体に制約された活動をしてしまうでしょう。」と。

 

 

子曰わく、ただ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」(論語 里仁編4)ということなのでしょうか。

 

正しく好み、正しく悪む。これも立派な至善なんですね。最初に善も悪もないって言っちゃうから混乱しちゃうじゃないの。

 

問題はこの「正しさ」を保証する「天理」の正しさをいかに保証するか。身体の制約から解放された心(実践主体)は正しく天理に従うことができるのか。

それが朱子学陽明学との分水嶺になるのだろうなあ。まだ全体の半分くらいなのですが今日はここまでにします、ぺっこりん。