賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

物置部屋(後半)

年齢
 つい先日、横須賀線の電車の中で、小林秀雄と乗合わせた。一年に一度か二度くらい、私たちはそんな会い方をする。わざわざ会いに行くことは、お互いにほとんどなくなった。若いころには、毎日のように会って、お互いに邪魔し合わねば気がすまなかったのだが。
 たまに会うと、やっぱり話がはずむ。何がきっかけだったか、私が「浄土宗は神道と関係が深いという説をどこかで読んだが」というと、小林は急に身を乗り出して、天台宗本地垂迹説の話をはじめた。たいへん面白いので、私は山崎闇斎垂加神道のことを口に出した。小林は闇斎の学説が本居宣長に与えた影響について語りはじめた。これもたいへんおもしろく有益だったが、話が終わらぬ先に、電車は新橋についてしまった。
 考えてみれば、小林秀雄は六十五歳、私は六十四歳。なるほど、そうだったな。
 
 それは芸術が、高次元のなりたちをした無意識の働きを、社会の表面に引き出してくる技術のひとつであることからもたらされた特質です。そういう性質は、ホモサピエンスの先祖がラスコーの洞窟にあのすばらしい壁画を描いたときからすでにはっきりと見届けることができますが、とくに宗教の果たしてきた社会的影響力がすっかり弱くなってしまった近代以降になると、芸術自身が自分にひめられている特質にたいしてより意識的になり、そのことを表現すことこそ自分の使命であると考えるようになりました。十九世紀の後半から開始されるいわゆる「モダン革命」の運動において、高次元無意識への通路を開くことが、大きな主題として追求されたのです。
 とくに印象派が出現してからは、この主題の追求はいよいよ純化され、絵画を「様式の革命」と呼ばれるものに、追い込んでいきました。印象派の絵画では、輪郭の消失という現象がおこっています。形態の輪郭が溶解して、内部と外部の隔壁が失われて、そこから光や色彩や生命が画面全体に浸透し出していくようになりました。
 さまざまなレベルで「分離」や「不均質化」をつくりだしていた非対称性の思考の産物が、解体をおこしていたのです。そして、風景を描く画家の位置までが同一性を失って、複数化したり、揺れ動きだしたりするようになりました。すると柔らかい色彩と揺れ動く形態に導かれるようにして、私たちの「心」の内部で対称性無意識の作動がはじまるのです。モネの『睡蓮』を見ている私たちは、そこに幸福の感覚のかけらがキラキラときらめいているのを直感します。伊藤若沖の描いた動物たちのなまなましい姿を見ていると、人間と動物とのあいだに同質な生命の流れが流通しているのを感じて、不思議な幸福感に包まれます。その昔、まだ人間が動物や植物と分離していなかった神話的な時間が、そこには取り戻されているからです。
 
ファンタジー
 “あとから生まれてきてしまったものたち”(子どもたち)に面と向かい、わたしちたちが目をそらすことなく、語るべきものをもつことのできる根拠は、この魔法、このよろこびのおとずれに関わっている。そしてたぶん、そこにしかない。“これからこの世界の悲惨をひとつひとつ知ってゆくものたち”に、悲しみに染めぬかれた喜悦をのぞいて他に、何を語ることができよう。どうして「生きていることは幸せなことだ」と言えよう。
 悲しみが深ければ深いほど人の喜びは深く、悲惨な境涯に生真面目に対面するほど、底ぬけに自由に遊ぶことができる。この魔法を通過することによって、私たちは初めて、幼な児の笑いに、無心な遊びに拮抗できる笑いと遊びをもつことができる。言葉の真の意味でのエピキュリアンになることができる。
 斎藤惇夫がシャルトルの中に見たもの、彼が(たぶんリルケにならって)悲しみと呼んだものは、たぶんこうしたことのすべてなのだ。それはファンタジーの生成のなりゆきであるといっていい。それは、ほどほどの悲惨の認識にみあうほどのあこがれとは無縁である。ファンタジー・ブームとやらいう、夢物語の流行とも、また凡百のファンタジーについての議論とも無縁である。まこと「ファンタジーは、持っているかいないかの問題」(L・ボストン)なのであって、こうした生成の現場におのがじし対面することなしには何の意味もない。
冒険者たち』(斎藤惇夫・作)の解説(菅原啓州)より
 
物語
 本来、物語とは「いつまでも終わりなく語りつづける」ことだけを主張してしかるべきものであり、そしてそれこそが近代小説が物語とその読者から無報酬で奪い去ってしまった正当な純朴さの権利である。もし、これを書きつぐことで少しでも、そうしたものを読者――とぼく自身――に還すことができたら、それこそぼくは一介の物語作者として望みうるかぎりの贅沢をゆるされたことになるだろう。そしてそのときこそ、「蜃気楼の戦士」のあの「エヴァ……リー! エヴァ……リー!」という小人たちの叫び声、「アキロニアはコナジョハラを失ったのだ。辺境地帯は押しもどされた。これからはサンダー河が国境だろうさ」というあのコナンのつぶやき、それにぼくの感じてやまなかった、いたたまれぬようなあのやるせなさはつぐないを得ることになるかもしれない。
 ヒロイック・ファンタジー――それは、本質的に《夜》に属する物語である。夜と闇、呪文といかがわしい黒魔術、淫祀邪教と病んだ魂とに。
 ヒロイック・ファンタジー――それは必ず、熱にうかされて見る悪夢の様相をその内にいつまでももっていなければならない。
 ヒロイック・ファンタジー――それは本質的に、成長して子供部屋を立ち去ってゆくことを忘れてしまった、狂った子どものおもちゃ箱であり、母の死をきくまいと自分の頭をうちぬいた明るい青い目(ほんとにそうでなくたってかまやしない)の大男が、その病んだ心の暗がりで見つけた妖女である。
栗本薫『豹頭の仮面』あとがきより

「貴公は――得がたい友だ――なぜそんなによくしてくれる……」
 ムーングラムは照れた呟きとともに背を向けた。火で焙るつもりの肉の下ごしらえを始める。
 自分でも白子への友情の意味が理解できなかった。それはつねに遠慮と愛情とが奇妙に混じりあったもので、こういう場合でさえ、二人ともが注意深く保っている微妙な均衡の上に成り立っていた。
 エルリックはサイモリルへの愛が、彼女の死と愛する都の破滅に終わってからというもの、出あう人々に優しい感情を向けることを、つねに恐れていた。
 かれは、自分を深く愛してくれた〈踊る霧〉のシャーリラから逃げた。ジャーコルの女王イシャーナは、家臣らのかれへの憎悪をものともせず、王国をさしだしたが、かれは彼女のもとからも逃れたのだった。ムーングラム以外の人間といるのは長く耐えられなかったし、ムーングラムのほうも、このイムルイルの真紅の眼の皇子以外の人間には飽いていた。ムーングラムはエルリックのために命を捨てるであろうし、またエルリックが友のためにいかなる危険をも犯すことを知っていた。だがこれは不健全なかかわりかたではあるまいか。二人は別の道を歩む方がよいのではないだろうか。ムーングラムはその考えに耐えられなかった。二人はひとつのものの部分―― 一人の人間の性格の両面のようだった。
マイクル・ムアコック『暁の女王マイシェラ』
 
作り話
ゲーテが面白いことをいってる。「ローマの英雄などは、今日の歴史家は、みんな作り話だと思っている。おそらくそうだろう。だが、たとえそれが作り話だとしても、そんなつまらぬことを言って、一体何になるのか。それよりも、ああいう立派な作り話を、そのまま信じるほど、我々も立派で良いではないか」って。そして「そういう考えの通る時代が客観的で健全な時代だ」と言っている。
高見沢潤子『兄小林秀雄との対話』
 
ある歴史家に
過ぎ去ってしまったことを誉めそやすあなたよ、
かずかずの民族の外面を、表面を、外に現れ出た生命を窮めゆくあなた、
人間とは政治、集団、支配者、僧侶の所産だと考えてきたあなたよ、
かくいうわたしはアレグニー山地の住人、生まれながらの権利をそなえた、あるがままの人間の歌を歌い、
めったに外には現れ出ないいのちの脈搏(人間が自身にいだく偉大な矜持)をしっかり捉えて、
「人間存在」の歌びととして、今からのちに生まれてくるものの輪郭を描いては、
未来の歴史を投影する。
ホイットマン『草の葉』

 それについて、ここにおかしな話がある。何も時事をふうするわけではないが、おれが始めてアメリカへ行って帰朝したときに、ご老中から「そちは一種の眼光をそなえた人物であるから、定めて異国へ渡ってから、何か眼をつけたことがあろう。詳しく言上せよ」とのことであった。そこでおれは「人間のすることは古今東西同じもので、アメリカとて別に変わったことはありません」と返答した。
 ところが、「さようであるまい。何か変わったことがあるだろう」といって再三再四問われるから、おれも、「さよう、少し眼につきましたのはアメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思いまする」といったら、ご老中が目を丸くして、「この無礼もの。控えおろう」としかったっけ。ハハハハ……
勝海舟『氷川清話』
 
歴史を読むとは、鏡を見る事だ。鏡に映る自分自身の顔を見る事だ。勿論、自分の顔が映るとは誰もはっきり意識してはいない。だが、誰もがそれを感じているのだ。感じてないで、どうして歴史に現れた他人事に、他人事とは思えぬ親しみを、面白さを感ずる事が出来るのだ。歴史の語る他人事を吾が身の事と思う事が、即ち歴史を読むという事でしょう。本物の歴史家が、それを知らなかったという事はない。そういう理想的読者を考えないで書いた筈がないのです。古い昔から私達が歴史家の先祖と考えてきた司馬遷が、どんな激しい動機から歴史を書いたかは誰も知るところだ。
小林秀雄『交友対談』より

ローマ
ところで私は幼いときからローマ人とともに育てられた。私はわが家のことを知るずっと前からローマのことを知った。ルーヴルを知る前に、カピトリウムとその位置を知っていたし、セーヌ河を知る前にティベリウス河を知っていた。わが国のどの人々について知っているよりも、ルクルスやメテルスやスキピオの境遇や運命についての知識で頭がいっぱいだった。彼らは死んだ。私の父も死んだ。父は十八年前に死んだが、千六百年前に死んだ彼らと同じように完全に死んで、私からもこの世からも遠くにいる。だが私は父に対して、完全な、きわめて強い結びつきで、依然として追憶と愛情と交情を抱きつづけている。
モンテーニュ『エセー』
 
裸と道徳は無関係
 平民身分の日本人はズボンをまったくはかないので、その格好たるやヨーロッパ人の意表をつくものとなる。かくて運命の悪戯でこの辺境の地に連れてこられたイギリスのお上品な淑女などは、それこそ行く先々で、両手で目をおおい、顔を赤らめて「ショッキング!」と叫ぶしまつ。(中略)
 目下のところ、文明開化をめざす政府は、こうした日本人の裸好きと執拗な闘争をくりひろげている。政府は年頃の娘たちが、街中をわれらが祖エヴァのような略衣で歩きまわるのを禁止したし、公衆浴場では男湯と女湯をしっかり区切るよう命じている。(中略)明らかに江戸の宣教師やその細君たちが政府にたきつけたにちがいないこれらの措置も、かならずしも所期の目的をたっしているとは言いがたい。たとえば公衆浴場では、たしかに男女混浴こそできないが、好きな連中が双眼鏡でも持って、女湯で入浴する日本の女たちに見惚れてるとしても、誰もそれを妨げたりはしないのだから。
メーチニコフ『回想の明治維新
 
江戸っ子
正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧が足りない。こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。わからないけれども、決して負ける積もりはない。このままに済ましてはおれの顔にかかわる。江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけ様がなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。只智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。
 
ウィーン
アントン・ブルックナーがルートヴィヒ・ボルツマンにピアノのレッスンをしていたこと、グスタフ・マーラーフロイト博士のところへよく心理学の問題をもっていったこと、ブロイアーがブレンターノのかかりつけの医師であったこと。また青年フロイトが青年ヴィクトル・アドラーと決闘したこと――それに、アドラー自身、シュニッツラーやフロイトと同じく、メイナートの診療所で助手をしていたことなどである。要するに後期ハプスブルク朝ウィーンでは、この町の文化的指導者の誰もが、なんの困難もなしに、互いに知り合うことができたのであり、活動した分野が、芸術、思想、それに公務と全く異なっていたにもかかわらず、彼らの多くは、実際、親しい友人であった。
S・トゥールミン/A・ジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』
 
野生
 あらゆる偉大な芸術においては、野生の動物が飼い慣らされている。
 たとえばメンデルスゾーンの場合、そうではないが。あらゆる偉大な芸術には、人間の原始的な衝動が、根音バスとして響いている。それは(もしかするとワーグナーの場合のような)メロディーではなく、メロディーに深さと力をあたえるものである。
 その意味で、メンデルスゾーンを「複製的」芸術家と呼ぶことができる。――
 おなじような意味で、私が建てたグレーテルの家は、断固たる耳ざとさの、行儀よさの結果であり、(ひとつの文化などにたいする)偉大な理解の表現である。だがそこには、存分に荒れ狂いたい根源的な生命が、野生の生命が――欠けている。したがってこうも言えるだろう。そこには、健康が欠けている(キルケゴール)。(温室植物。)
ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』
 
ハードボイルド
狂気の沙汰と思うかもしれないが、最近あの小説を再読して、またとても好きになったので、本当に著者に手紙を書き、お礼を言いたいと思いました。そんなことは変人のやることだとしても、驚かないでほしい。わたしは変人なのだから。
ノーマン・マルコム『回想のヴィトゲンシュタイン
 
不運にもマルコムは報告している。「私が記憶している限りで、私はこの作家について何らかの情報を得ることはできませんでした。」これは残念なことである。一九四八年頃にはノーバード・デイヴィスは、実際には痛ましいほど落ちぶれていたからだった。彼は、ダシール・ハメットや他の黒人作家たちと一緒で、アメリカの<ハードボイルド>推理作家のパイオニアのひとりであった。三〇年代の初めに、彼は推理小説を書くために弁護士職を捨て、その後一〇年間作家として成功を収めた。しかし四〇年代の後半には彼は不遇であった。ウィトゲンシュタインがマルコムに手紙を書いた後まもなく、デイヴィスはレイモンド・チャンドラーに、彼の最近の十五の作品のうち十四が出版を拒否されたので、チャンドラーに二〇〇ドル貸してほしい旨の手紙を書いた。その著者に感謝の手紙を書こうとしたほどウィトゲンシュタインの好きな本を書いたという希有な(たぶん独特な)栄誉にも気づくことなく、翌年にデイヴィスは貧困のどん底のうちに亡くなった。
レイ・モンク『ウィトゲンシュタイン
 
 そして、そこには悠久の歴史ロマン、また男のロマンとやらがあるらしいが、英雄豪傑どもの果てしない戦いの背後では、老人幼少が分け隔てなく大屠殺され、女は掠われ見境無く繰り返し繰り返し強姦されているのであり、残虐この上なく、『三国志』には踏みにじられた人々の怨嗟の声が満ち満ちて抑圧され秘められているのである。『三国志』を面白がっていいものかどうかいささか悩むところである。
 英雄連中もしょっちゅう二十、三十万の大軍を起こしては火で燃やされたり、河江に沈められたり、得体の知れない罠にはまったりして、虫けらのように殺されてゆく。それを、
「乾坤一擲の大智謀、秘計が当たったわい!」
 と喜んだり、褒めたり、けなしたりし合っているのである。人間の知性は『三国志』では、人殺しに用いられるばかりである。紛争解決にもっとよい知恵を出すのが知性というものだろうと思いたい。敢えて人類とは度し難い生き物だということを示したいのか。
 
レノン
ジョン・レノンは、完璧なポップ・メーカーに一番近かった人だと思ってる。何て言ったら良いかな。僕にとって完璧なポップ・ソングというのは、ジョン・レノンの“インスタント・カーマ”なんだ。彼はあの曲の中でもの凄くパワフルな事をもの凄くシンプルに述べているだろう? それに素晴らしいメロディ・センスの持ち主でもある。でも決してラフなエッジは失わなかったね。ポール・マッカートニーは割と曲の全てをなめらかに作り上げて行くけどジョンの場合は即席っぽくラフに作って、ラフのままにしておくんだ。するとそのラフさというのが次第に宝石の様に輝き始めるんだ。そういう意味では、彼は音楽の中で、世界を的確に捕えてたと思う。
 
感情
それから感情について言いますと、あなたというものを集中し高める感情はすべて純粋であり、あなたの本質のただ一面のみを捉え、こうしてあなたを歪める感情は不純であります。あなたが御自身の幼年時代に直面しながらお考えになれるすべてのものは、よいものです。あなたをこれまでの最善の時にも増して、より豊かなものとするものは、すべて正しいのです。すべての高揚はよいものです。それがあなたの血全体の中にある時は。そしてそれが陶酔でなく、混濁でなく、その底までも透いて見える喜びであるならば。私の言うことがおわかりでしょうか。
リルケ『若き詩人への手紙』
 
物のあはれ
 中国的思考の特徴をなす――と宣長の考えた――事物にたいする抽象的・概念的アプローチに対照的な日本人独特のアプローチとして、宣長は徹底した即物的思考法を説く。世に有名な「物のあはれ」である。物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと、それが「物のあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法である、という。明らかにそれは事物の概念的把握に対立して言われている。
 概念的一般者を媒介として、「本質」的に物を認識することは、その物をその場で殺してしまう。概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。だが現実に、われわれの前にある事物は、一つ一つが生々と自分の実在性を主張しているのだ。この生きた事物を、生きるがままに捉えるには、自然で素朴な実存的感動を通じて「深く心に感」じるほかに道はない。そういうことのできる人を宣長は「心ある人」と呼ぶ。
 (中略)宣長の言わんとするところを、いま、「本質」論的に敷衍して表現するとすれば、「物の心をしる」とは、畢竟するに、一切存在者の非「本質的」(=「本質」回避的、あるいは「本質」排除的、すなわち反「本質」的)、つまり、直接無媒介的直観知ということになろう。事物のこのような非「本質」的把握の唯一の道として、宣長は「あはれと情(こころ)の感(うご)く」こと、すなわち深い情的感動の機能を絶対視する。物を真に個物としてあるがままに、それの「前客体的」存在様態において捉えるためには、一切の「こちたき造り事」を排除しつつ、その物にじかに触れ、そこから自然に生起してくる無邪気で素朴な感動をとおして、その物の個的実在性の中核に直接入っていかなくてはならない、というのだ。
井筒俊彦『意識と本質』
 
コトバの天使学
ここで「天使学」というのは、もともと、グノーシス的傾向の著しく強かったフランスのイラン学者、アンリ・コルバンが、古代イランのゾロアスター的「幻想」を想わせるスフラワルディーの宇宙ヴィジョンを叙述するにあたって使いだした angelolgie という語をそのまま英語にして活用したもので、思想としては明らかにコルバンの影響だが、要するにヒルマンが言いたいのは、およそコトバなるものには「天使的側面」があるということ、つまりすべての語は、それぞれの普通一般的な意味のほかに、異次元的イマージュを喚起するような特殊な意味側面があるということだ。「天使」などのように、始めから異次元の存在を意味する語ばかりでなく、「木」とか「山」とか「花」のようなごくありきたりの事物を意味する語も、やはり、異次元的イマージュに変相する意味可能性をもっている、というのである。すべての語が内含するこの異次元的意味可能性を、彼は語の「天使の側面」(the angel aspect of the world)と名付ける。
井筒俊彦『意識と本質』
 
ダイモーン
ヘラクレイトスの言葉は、エートス・アンドローポー・ダイモーン(『断片』一一九)というのです。これはふつう、「人柄は人間にとってかれの守り神である」と訳されています。この翻訳は近代的であって、ギリシア的ではありません。エートスは滞留、すなわち住まいの場所〔居所〕を意味します。この語は、人間がそのなかに住んでいる開かれた区域をいいます。人間の住まいの開けた場所は、人間の本質へと来るもの、したがってまた、その近くにやって来て留まるところのものの姿をあらわせます。人間の滞留は、人間が本質的に属すところのものの到来を含みかつ護ります。これが、ヘラクレイトスの言葉に従えばダイモーンすなわち神なのです。そこでヘラクレイトスのさきの言葉は、「人間が人間であるかぎり、かれは神の近くに住まう」ということです。
 
言葉は存在の家です。その住まいに人間が住まうのです。思索する者と詩作する者は、この住まいの番人です。かれらが番することによって、存在は完全に姿をあらわします。それも、かれらがかれらの発言をつうじて、存在のあらわれを言葉にもちこみ、そして言葉のうちに保存しているかぎりにおいてです。
 
僕、最近ニーチェを読み返して感じたのだけど、ニーチェ古代ギリシャの神々を信じたのと、本居宣長が古代日本の神々を信じたのと、一脈共通するものがあるんだ。それは決して狂信的なものじゃない。彼らの合理精神がいきつくつところ、そうなるんだ。だから、宣長儒学を排撃するでしょう。しかし本当をいうと、彼の思想的骨格は実は儒で出来ている。しかし儒にある観念論が日本人の素直な心を誤るからこれを排撃するんだ。同じように、ニーチェの人格も、泥をはかせればキリスト教で出来ている。しかしキリストの慈愛(シャリテ)が人間性の厳しさを甘やかせるから、これを拒否しなければならない。つまりニーチェにとってキリスト教は「から心」なんだ。ニーチェは心の故里に還るために、反キリストを標榜してるのさ。
河上徹太郎『鼎談(座談)』より
 
思想の軽蔑
純潔なる思想は書を読んだのみで得られるものではない。心に多くの辛い実験を経て、すべての乞食根性を去って、多く祈って、多く戦って、しかる後に神より与えられるものである。これを天才の出産物と見做すのは大なる誤謬である。天才は名文を作る、しかも人の霊魂を活かすの思想を出さない。かかる思想は血の涙の凝結体(かたまり)である、心臓の肉の断片である。ゆえに刀をもってこれを断てばその中より生血の流れ出るものである。ゆえにいまだ血をもって争ったことのない者のとうてい判分することのできるものではない。文は文字ではない、思想である。そうして思想は血である、生命である。これを軽く見る者は生命そのものを軽蔑する者である。
 
ヤらないか?
 オレ達が時々“モー(Moe)”と呼んでいたビル・エバンスがバンドに入ってきた時は、あまりに静かなんで驚いた。ある日、どれだけできる奴なのか試してみようと、言ってみた。
「ビル、このバンドにいるためには、どうしたらいいか、わかってるんだろうな?」
 奴は困ったような顔をして、頭を振りながら言った。
「いいや、マイルス。どうしたらいいだろう?」
「ビル、オレ達は兄弟みたいなもんで、一緒にこうしているんだ。だからオレが言いたいのは、つまり、みんなとうまくヤらなくちゃということさ。わかるか? バンドとうまくヤらなくちゃ」
 もちろん、オレは冗談のつもりで言ったんだが、ビルはコルトレーンのように真剣そのものだった。で、十五分ぐらい考えた後、戻ってきて言った。
「マイルス、言われたことを考えてみたけど、ボクにはできないよ。どうしても、それだけはできないよ。みんなに喜ばれたいし、みんなをハッピーにしたいけど、それだけはダメだよ」
「おい、お前なあ!」。オレは笑って言った。で、奴にも、やっとからかわれてることがわかったんだ。ビル・エバンス、いい奴じゃないか。
 
余は如何にして基督信徒となりし乎
終章で語られる「基督教国の偽りなき印象」には、「三年半のそこでの滞在は、それが余に与えた最高の厚遇と余がそこで結んだ最も親密な友情をもってしても、余を全くそれに同化せしめなかった。余は終始一異邦人であった」と書かれている。彼(内村鑑三)の「偽りなき印象」によれば、今こそ明瞭に言う事が出来るが、「基督教国の基督教性」とは、「その教授達によって装飾され教養化された基督教」以外の何物でもない。これが常套の状態となっている彼等には、当然その自覚が欠けている。この出来合(レディー・メイド)の基督信徒の間を渡り歩いて来た事を、内村は「海陸二万マイルをこえる流竄」と呼んでいる。「異邦人」は、みなに別れを告げて、「帰郷」の途につく。流竄の身のポケットに残されたのはわずか七十五銭であったが、携え帰った知的資本にも、両親を喜ばす為の卒業証書の類は一枚もなかった。彼は、ただ心の奥深く、信仰上の信念を秘めていただけである。――「余は夜遅く我が家に着いた。丘の上に、杉垣に囲まれて、余の父親の小家屋が立っていた。『お母さん』余は門を開けながら叫んだ、『あなたの息子が帰って来ました。』」――内村の眼前には、苦労と忍耐とに痩せた、この世のものとも思われぬ美しい女性と男々しい男性とが立っていた。極度に簡潔な筆致は、極度の感情が籠められて生動し、読む者にはその場の情景が彷彿として来るのである。
小林秀雄正宗白鳥の作について』
 
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば
我が身さへこそ揺がるれ
 
ミュージシャン
リンゴはすごくいいドラマーだ。昔からうまかった。テクニックとしては特にうまくないけど、リンゴのドラムは、ポールのベースと同じように過小評価されていると思う。ポールはベーシストの中でもいちばん革新的なベーシストのひとりなんだ。今のベース・プレイの半分は彼のビートルズ時代のプレイのパクリだよ。ポールは自分のベースに対して謙遜してたんだ。すべてのことに利己主義なあいつが、自分のベースにだけはいつも謙遜してた。(中略)チャーリーはとてもいいドラマーだし、もうひとりのやつもいいベーシストだ。でも、ポールやリンゴだって、どんなロック・ミュージシャンにも負けやしない。テクニックはそれほどでもないけどね。僕たちはテクニックで売るミュージシャンじゃなかったんだ。楽譜も読めなかったし、書くこともできなかった。だけど、純粋にミュージシャンとして音楽をつくる才能にかけてはだれにも劣らなかったんだ。
ジョン・レノン『ジョンとヨーコ ラスト・インタビュー』
 
耳を傾けること
あるとき、小林さんの人柄の無類の魅力に、僕は危機感を感じましてね、つまり、この人のそばにいるとあぶねえと思った。この魅力そのものにやられちゃいそうだと思ったんですよ。で、あるとき、意を決して、鎌倉に伺って、今日は、小林さんを批評しに来たと言ったら、にやっと笑って、「上がんな」とおっしゃるから、上がったら、煙草をいっぱい持ってきて、机の上にポンと置いてね、「言ってみな」って。それから僕、批判を始めたわけです。小林秀雄ヴァレリーにくらべていかに中途半端であるか。いかに小林さんのドストエフスキー論が単純であるか。言いたいことは全部言った。小林さんは一言も言わないで黙って聞いている。で、一時間半もしゃべると、だいたい言うことは尽きるわけですよ。僕が黙ったら、「それだけか」っておっしゃる。「はい」って言ったらね、一番僕が予想してなかった返事が戻ってきてね、「おめえの言うとおりだよ」っておっしゃるんです。これは、どんな返答よりも堪えましたね。おめえに何がわかる、バカヤローとか、帰れとか言われるんじゃないかと思っていましたから。僕は、かなり無礼なことを言ったわけですよ、一時間半にわたって。あの人は、ほんとにそう思う人なんだね。
粟津則雄『小林秀雄体験』

音楽から、一切の科学的な仕組みをとりのぞかなければなりません。音楽は、謙遜に<楽しませ>ようとつとめるべきです。その限界内に、ありうべき偉大な美が、おそらくある。極端にこみいっているものは、芸術とは反対の側にあります。美は<感じられる>ものであり、私たちに直接のたのしみを得させ、それを手中にするためのどんな努力をも求めずに、自分をつらぬき、しみとおってゆくものでなければなりません。レオナルド・ダ・ヴィンチモーツァルトをごらんなさい。かれらこそ大芸術家です!
ドビュッシー音楽論集』
 
 わたしたちは田園地帯を歩いた。《技巧的な》詩人は、素朴きわまる花々を摘んだ。ヤグルマギクヒナゲシでわたしたちの両手はいっぱいになった。大気は火と燃えていた。絶対的な壮麗さ。眩暈と交換に満ちた沈黙。不可能な、あるいは超然とした死。すべてはすさまじいばかりに美しく、燃え上がり、眠っていた。そして、地上のものの姿は揺らめいていた。
 壮大で純粋な空のもとで陽光を浴びながら、あたかも、破壊自体が完成するやいなや破壊されるように、わたしは、明確に区別されるものがなにも存続せず、なにも持続せず、それでいてなにも止むことのない白熱世界を夢想していた。わたしは、存在と非在との差異の感覚を失いつつあった。音楽が、あらゆる印象のかなたにあるこうした強烈な印象を与えることがある。わたしは、詩もまた、諸々の観念の変容の至上の戯れではないだろうか、と考えていた。
 
 マラルメは、例年より早めに到来した夏が黄金色に染め始めていた平原を、わたしに指さした。《見てごらん、あれは、秋のシンバルが大地に打ち下ろす最初の一撃なんだよ》、と彼は言った。
 
 秋が来たとき、彼はもういなかった。
ヴァレリー『最後のマラルメ訪問』
 
立ち返り
日本人  日本の私の教師や友人たちは、あなたのお骨折りを常にこの意味で理解していました。田辺教授は、かつてあなたから向けられた問いによく立ち返っていました。おまえたち日本人は、いよいよ貪欲になってヨーロッパの哲学でその都度の最新のものばかり先を争って追いかけたりする代わりに、どうして自分自身の思考の立派な始まりに想いをいたさないのか、という問いです。実際、今日でもなおそういうことが続いてます。
ハイデッガー『言葉についての対話』

日本文化がみずからの思想を、論理ではなく、小説や詩歌や芸術のかたちを通して表現してきたことはたしかであって、あきらかにそこには独特の構造をもった表現がなされている。小説は主人公がいつも同一であることを許さず、さまざまな意味が錯綜しあい流動的に変化していく状態をつくりだすことによって、人間世界の「あはれ」の様を描こうとしてきた。詩歌には「喩」が重要な役割を演じて、ここでもことばから概念のようなものが発生することを回避する技術が、磨かれてきた。芸術にあっても事情は同じで、同一なものが反復するのではなく、有と非有の境で微妙に変化していく空間を造形することに、この文化はたいへんな精力を注いできたのだ。
 
日本哲学」の課題は、したがってはじめからダブルバインド的だったのである。西欧哲学の巨大な体系に出会ったとき、「日本哲学」の創始者たちは、それが数学的な厳密さを持った概念の体系として構築されている様子に、深い感銘を受けた。しかし、彼らは多くの同僚たちのように知的な輸入業者として振る舞うことを、みずからに拒絶したのである。西田幾太郎も田邊元も、ギリシャ哲学の創始者と同じような振る舞いをしようとした。つまり、彼らの生きている文化(ポリス)において、マテーシスの振る舞いをおこなうことを、行為の基準に定めたのである。自分と同じ文化を生きるみんながすでによく知っていることを、芸術や文芸のやり方によるのではなく、きちっとした概念と論理によって語り出してみることが、哲学の始原であるマテーシスの行為である。その行為を「幾千年来我々をはぐくみきたった東洋文化」の中でおこなおうとするとき、即座にいくつもの障害が立ち上がる。
中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』
 
「好きな曲はなんですか?」
「まあ、嫌いな曲をあげるのが難しいようなものですが、強いてあげれば<アイ・コール・ユア・ネーム>系の作品は好きですね」
「ああ、じゃあ<スロー・ダウン>系もいいでしょう?」
もちろん、このあたりは軽いジャブ程度のものだ。お互いに、大ヒット曲のタイトルは口にしない。<イエスタデイ>が好きだなどというのは、ファンとは言えないのだ。あの名曲は、誰もが好きなのだから。
「<ホット・アズ・サン>のビートルズ・バージョンは聴いたこと、あります?」
「幻の名盤のタイトル曲ですね。ポールのハミングが入ってるやつでしょう? 基本ですね。でも<ノーバデイ・アイ・ノウ>をビートルズが演奏しているものは聴いたことがないんですよ」
「ああ、それは僕もない。海賊版ブートレグ)でも出てないんじゃないかなあ」
このあたりになると、完全にオタクの領域で、普通の健康な人々には近寄りがたい世界だろう。
僕は島田さんを「なかなか、やるじゃないか」と思いはじめ、島田さんは僕を「こいつは、どうして捨てたものじゃない」と見直しはじめていた。
井上夢人『島田さんとビートルズ

ジョンの死後なん日かたってまざまざと見せつけたのは、彼らの音楽には、生き方もものの見方もぜんぜん違う人々を一つにさせるだけのパワーがあるということだった。それは全世界が経験した集団的なカタルシスだった。彼らは世界の家族となり、彼らの音楽はいまもクリエイティヴインタープレイをかたちにし、実行しつづけている。つまり、「ツイスト・アンド・シャウト」をカヴァーしたとき、彼らはみんなを踊らせたかったのである。ダンス・フロアーの上ばかりでなく、毎日の生活のなかで。彼らはできうるかぎりこの根本的発想を強調している。厳しい現実にはみんなで共通の夢をもてと。夢の生活と現実の生活との違いを認め、感情と知性の奇妙なスリル感を楽しみ(「ヘイ・ジュード」、「インスタント・カーマ」)、絶望を共有するときの心を洗う効果を味わえと(「エリナ・リグビー」、「ドント・レット・ミー・ダウン」)。
ティム・ライリー『ビートルズ全曲解説』
 
ロック
 しかし真に歴史的な瞬間は、その十分後だった。B面用に「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を録音しようとした時のことだ。エルヴィスは、ファルセット(裏声)混じりのワルツで歌われていたこの曲を、歌詞の語彙を少し増やし、四拍子のリズムに乗せて激しく歌った。瞬間、サムの背中に電撃が走り、興奮したサム・フィリップスのこの時の声は、CD「コンプリート・サン・セッション」で今も聴ける。スタジオのドアを開け、彼はこう叫んでいる。
「おい凄いぜ! 今までのとは全然違う。そいつはもうポップ・ソングだ!」
 一九五三年七月五日、世界の音楽史にロックという新しい音楽が生まれた瞬間だった。
島田荘司『聖林輪舞』
 
ジャイナ教徒はラージプートの気質の多くを併せ持っている。この二つの伝統は共通の基礎の上に成り立っている部分が多い。例えば、他者への奉仕における自己犠牲や、他者が助けを必要としているときには手を差し伸べることなどである。重要な違いは、ジャイナ教徒が暴力を用いることを放棄している、ということだ。そこには妥協はない。彼らにとって目的が手段を正当化することはない。いかなる状況でもジャイナ教徒が武器を手にして人を殺すことはないが、ラージプートは正義や名誉や正しいもののために戦う。
サティシュ・クマール『君あり、故に我あり』
 
ある日本の若い貴族と、ある日話をしたとき、キリスト教のお祈りは静かに心の中で称えるのだそうだという話になり、彼が子供のとき、父親から与えられた刀が彼の生活の中で同じ役割を果たしていることを打ち明けてくれた。彼の話によれば、まだ六歳の少年だったとき、父親が彼を傍らに呼び、敵が攻めてきたらどうするかと突然尋ねた。「刀を手にとります」と彼は答えた。この実際的な答えに父親は大いに喜び、未だきわめて若かったにもかかわらず刀を与えられたのであった。彼は話を続けて、自分の部屋にいつもその刀を掛けておいて毎晩それを持って立ち、一日を振り返ってみて刀に値しないようなことを何かしたか反省するのだと語った。「どんな悪いことでも、切り開いて進まねばなりません」というのが彼の言い方で、「私は朝一番にも同じことをしますが、誰にも気づかれないようにしています」とつけ加えた。
エセル・ハワード『明治日本見聞録』
 
イティハース
「歴史(イティハース)」の語義は「このようになった」です。この意味でとると、サッティヤーグラハの証拠はたくさん出せます。英語の単語の「歴史(ヒストリー)」は翻訳で、単語の意味は帝王たちの行跡です。この意味で取ると、サッティヤーグラハの証拠はありえません。錫の鉱山で銀を探してもどうして見つかるでしょうか? 「歴史(ヒストリー)」では世界の戦争の物語だけが見つかるでしょう。白人たちの諺があるのですが、「戦争(ヒストリー)」のない民族は幸せである。帝王たちがどのように享楽に耽ったか、どのように殺し合ったか、どのように仇同士になったか、そのすべてが「歴史(ヒストリー)」に見られます。もしこれこそが歴史であれば、もしこれだけであったら、世界はとっくの昔に沈没していたことでしょう。もし世界の物語が戦争から始まったとしたら、今日、生き残っている人間は一人もいないでしょう。
M・K・ガーンディー『真の独立への道』
 
ゲリラ
 ゲリラ隊員が戦死した場合には、これに武器弾薬をもたせたまま遺棄してはならない。戦友がたおれた時はいつでも、これら戦闘のために極度に必要な用具をすぐさま回収することがすべてのゲリラ兵士の義務である。弾薬にとくに注意を払い、特別の方法でそれを使用することがゲリラ戦の特質のひとつなのである。ゲリラ部隊と正規軍のあいだのどのような戦闘においても、発砲のやり方を見ただけで両者を識別できる。正規軍が大量に発砲するのにたいし、ゲリラ部隊は散発的に、しかし正確に射撃するのである。
 かつてわがゲリラのひとりが、――かれは戦死したが――機関銃を使用して連続射撃につぐ連続射撃を約五分間おこなったことがあった。しかしこのためにわが部隊は非常な混乱におちいった。兵士たちは射撃のテンポからして、かれのいた重要拠点がすでに敵に占領されてしまったのではないかと思ったのである。これはその陣地がきわめて重要だったために弾薬節約のルールを無視したまれなケースだったのである。
 
いい人
 『本居宣長』を読んで、私には本居宣長に関する知識が少しだけ増えた。しかし、本居宣長の著作を読んでみようという気は起こらなかった。本居宣長という人物に魅力を感じないのも相変わらずだったが、その代わり、「小林秀雄という人はいい人なんだ」という実感を得た。「日本の知的社会の中枢に“いい人”がいるということは、とてもいいことだ」と思って、些か救われた気がした。そんな感じ方をしたのだから、私は日本の知的社会に「いやなもの」を感じていたのである。これを、本居宣長的――あるいは小林秀雄の書く『本居宣長』的に言えば、「日本の知的社会に漢意(カラゴコロ)を感じていた私は、小林秀雄にやまとごころを見た」である。「やな感じがするもの」が漢意であり、「いい感じがするもの」がやまとごころである。なぜかと言えば、本居宣長が、「やな感じがするもの」に対して「漢意」という言葉を与え、「いい感じがするもの」に対して「やまとごころ」という命名規定をしたからである。小林秀雄の『本居宣長』を読んで、私はそのように理解した。この理解を、小林秀雄は否定しないと思う。
 
 彼が「読んで欲しい」と言うものは、この本の最後で語られる「宣長の自問自答」ではないだろう。それは『本居宣長』という本の中で委曲を尽くして語られた、「あなたは自分に誠実に、よりよく生きようとしているのか?」という問いだろう。「私がなにを言いたいかは、私の書いたものの中に明瞭に存在している」と明言する小林秀雄を、私は「いい人」だと思う。小林秀雄に関して、『本居宣長』しか読んでない私に、それ以上のことは分からない。
 
 孔子の門弟三千人、文、行、忠、信を心得た皆、異能の士なり。そのうちことに優秀な弟子十名が十哲として後に伝えられた。しかしその中で孔子がことに惜しみ愛した弟子は顔回ただ一人であった。後世の研究者たちも、
「何故、顔回なのか」
 がはっきりとは分からなかった。儒教道学の観点からしか研究出来なかったかれらに分かるはずもない。序に述べた通りに作者にも分からなかった。
 だが、奇妙な話だが作者はこの長い小説を書いているうちに、ようやく、おぼろげにやっとそれが分かってきた。作者は長い年月を顔回孔子に付き合ってきた。
「何故、顔回だったのか」
 を知るには作者はこの年月はどうしても必要だったのであろう。作者が自ら書く小説に教えられることは多々あるのである。 
ただ「陋巷に在り」を書くにあたり、唯一キーワードとしていたのは、
「思い邪無し」
 ということであった。嘘であっても邪であってはならないということでもある。「陋巷に在り」にかぎらない。どんなものを書こうが、この心なかりせば小説家はたんなる騙り者、何を言いたいんだかよく分からん文学屋に堕してしまうのではなかろうか。
(中略)最近、「三国志」の話を書いている。作家人生の中でよもや「三国志」を書くなどあり得まいと思っていたが、そうなればなったで開き直るしかなく、「陋巷に在り」執筆で学んだものが「周公旦」のときのように活かされればと考えるところだが、どう転ぶかは見当も付かない。
酒見賢一陋巷に在り』13巻&そのあとがきより