賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

天皇の世紀(大佛次郎)

 料亭枡屋の女将が、その折り、避難して同じ場所に来ていて、(河井)継之助を見かけて、その時の話を残している。
「(中略)確か五月の十九日と思います。長岡が落城というので、大砲、小銃の響きはアチコチから手に取るばかり、町の中はただ抜身の人達が行交う中を、気も魂も身に添わず、悠久山へ逃げて参りますと、河井さん始め御一門のお歴々が綺羅星の如くお並びになってお出でだので、私は河井さんのお顔を見ると、誠にモウ気の毒やら怨めしいやらで、胸が一杯になって、河井さんに、昨日が昨日まで、長岡は大事ないと仰しゃって居ながら今日の有様は何で御座りますと泣きながら申上げますと、母が傍で、この馬鹿め、何を言うと云って私を叱りつけましたが、河井さんは別段お叱りもなく、ジット手をお組みになって『如何にも残念だ』と仰しゃりました。その時の御様子が、未だに眼に残って、と思い出す毎に涙の種で御座います。それから河井さん始め皆様が、これが一生の名残りだと仰しゃって、御銘々に餞別を下さいました。私共は宮路の方から母の里の今町の方へ逃げて参りました。」
 いや、必ず負けはせん。一粒の米を二つに割いても喰わさずに置かぬ、と城下を歩いて大声で言聞かせていたと伝えられるほど、自ら負うところ重く、また衆望を集めていた男子として、この娘の率直な非難を聞いたのは何よりも胸をえぐられるように辛いことだったろう。(17巻p96~97 朝日新聞社文庫)


幕末から明治への流れをざっとでいいから追ってみようと思い、なにかいい塩梅の本はないかな~っと思ってた折、そういやあ小林秀雄がこの本をなにかと褒めていたなあと古本屋で購入したのですが、分かっていたとはいえ、途中で終わってしまったのが残念至極。

この後、河井継之助が長岡城を奪還して(すげえ)、左膝を銃で撃たれたところで絶筆とあいなってしまったのですが、その後の出来事をネットで調べてみてまあこれで終わりでもいいかなと手の平返し。

河井継之助をなかなかの快男児として描いており、その人物の最期を見届けるのはちと辛かったかもしれません。上の引用に見られる飾らない人柄など河井継之助って面白い人だなあと感服しました。はいワタクシ、この人のこと全然知らなかったです。無知だってことは分かってるから大丈夫! 無知の知なのよー。

河井継之助師にあたる山田方谷との師弟の交わりとか注目したいところが色々あるのですが、最初の頃は薩長側を応援してたのに官軍になってエラそうになってくると途端に幕府方を応援したくなるのは日本人の悲しい性。判官贔屓でなにが悪い!

明治維新の歴史は日本人にとって涙なくして読めないものだ、みたいなことを小林秀雄はどこかで書いていたのですが(忘れちゃった)、なにをもってそんな胸をえぐられるような思いで維新史を読むことになるのか、それがまだつかめていないです。




追記:
ネット回ってましたら、この本と作者についての分かりやすい記事があるのを見かけましたので、一部引用します。


「昔のことを見ていると、何か人のことを見ているようだ。『鞍馬天狗』と『パリ
燃ゆ』では随分と違いますから。そんな意味で私の作品全部理解でき、読み通
せる人は少ないでしょう。ただ傾向は違っていても『鞍馬天狗』や『パリ燃ゆ』の
ような歴史的作品こそが私の真骨頂と自負しております。『天皇の世紀』はまず
最後の作品になるでしょうが、終わらせるには百歳の寿命が必要です。いまは
、僕の歴史観が出ていてくれれば、それで十分だと考えております。小林秀雄
んが『あそこまで書いているんだから、もう仕事は成し遂げられている』とおっし
ゃったそうですが有難いと思います。」