賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

とりとめのない感想 ・補足

ブルーな球体」のナオさんがこちらの記事で、ワタシの記事の中にあった小林秀雄の言葉を引用されてましたので、あわてて原文を当たってみた。ぶっちゃけうろ覚えです!
 
俺の考えによれば一般に女が自分を女だと思ってる程、男は自分を男だとは思っていない。この事情は様々の形で現れるがあらゆる男女関係の確信に存する。惚れるというのは言わばこの世の人間の代わりに男と女とがいるという事を了解する事だ。女は俺にただ男でいろと要求する。俺はこの要求にどきんとする。(小林秀雄「Xへの手紙」)
 
うん、まあ大体合ってる。合ってるよね? うろ覚えで引用しちゃあいかんのですよ。ナオさんスミマセンでした。
この文章が「Xへの手紙」からだったこと自体、忘れてました。ググッてみてようやく分かりましたよ。これは恥ずかしいなっ。しっかりしろオレ。それにしてもこんなツイッターもあるんですねえ
 
 
今日嫌われている神とか永遠とかいう言葉程長生きする言葉はない。何故かというと、こういう種類の高等言語には、一般に人々が苦もなく考えているような明瞭な対象はもともと無いからだ。人の或る種の想いを最も巧みに形容した形容詞だからだ。 (Xへの手紙)
 
 
かあっこいいなあ。「Xへの手紙」では、この種のカッコイイ台詞がマシンガンのように次々と撃ち出されてきて、昔、何遍も読み返したものですが、いやあ思い出せませんでした。やあねえ。
 
小林秀雄という人は、色々と言われていますが、基本は愛の人だとワタシは思ってます。
本居宣長」の執筆が終わった頃のインタビューで、これから何か書きたいものがありますか?という問い掛けに小林秀雄が「小説を書きたい」と答えていて、アナタ、「批評の神様」とか呼ばれてて、まだ小説に未練があるんですかと、思わず声に出してツッコんでしまったことがあるのですが、この人は本当に小説が好きなんだなあと思う。「Xへの手紙」も、小説と言えなくもないですが、でもやっぱりこの人に小説は向いてないよな。この人の初期の頃の文芸月評など、取り上げられている作品はさっぱり知らないのですが、それでも今でも面白く読めるのは、この人の小説に対する愛情があればこそだと思う。ワタシのチャンピオン感想も、あんな具合に書ければなあ。絶対無理。
最近読んでる本で、なにかと小林秀雄の言葉が引用されてるのですが(浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」、大澤信亮「神的批評」など)、やはりこの人の影響力って大きいんだなあと改めて思ったりしています。
 
 
それはともかく、ナオさんの記事でオノ・ヨーコ大先生が取り上げられてましたが、そういえばやけにジョン・レノンの曲が流れてるなあと思った日があったのですが、その日はジョン・レノンの誕生日だったんですね(10月9日)。
その日は「一日一曲」で、取り上げようと思ってた曲があったのですが、完全に手遅れとなってしまいました。ということで、今さらながら貼っておきます。「Oh My Love」です(「イマジン」収録)。
 
 
 
 
 愛によって世界が開かれてくる。
 風や、木々や空が見えてくる。
 心が大きく開かれ、はっきりと
 感じることができる。何を?
 悲しみを。そして夢を。
 
この過激なまでのシンプルさがたまらん。シンプル・イズ・ベスト。
一種、東洋的なムードさえ感じられるのですが、こういった「Dear Prudence」路線の曲をもっと聴きたかったなあ。惜しい人を亡くしたものです。最後に参考までに、ある東洋の賢者の言葉を。
 
 愛はなんら支配的性質を持つものでなく、したがって、いわゆる理知や感情の領域には属さない。愛は思考や感情によって生み出されるものではなく、理知的な言葉でもなく感覚的な反応でもない。「私は愛を持たねばならない。そしてそのためには心情の涵養に努めなければならない」と言うとき、そのように意図する主体は理知であって、またもや理知と感情は別々のままである。なんにせよ意図的に両者を統合するなどということはできない。愛は努力の果てに生まれるものではなく、まず最初に存在すべきものである。
 「ではどうすればよいのでしょうか」
 このとき彼の目はしだいに輝きはじめ、その身体にある動きが見られた。彼は窓の外に目をやった。徐々に内面の炎が燃えはじめたのである。
 なにもすることはない。ただ心を開いて耳を傾け、あの花の美しさを見つめたまえ。(「クリシュナムルティの瞑想録」)