賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

物置部屋(前半)

Freisinn(Goethes)
ぼくは ただ自分の鞍にのっていよう
きみたちは きみたちの小屋に 天幕にとどまるがいい
ぼくは よろこんで遠方に馬を走らす
ぼくの頭巾のうえには 星くずばかり
    ☆
神は きみたちのために 陸と海の
みちびきとして 星座をおいた
きみたちが いつも天空をながめて
心をなぐさめるように
                          井上正蔵:訳              
宇宙飛行士
飛行中、地上の管制塔が私になにが見えるかと訊いてきた。
私はこう言った。「なにが見えるかって? 左側に世界の半分、右側にもう半分。
世界が全部見える。地球はとても小さいぜ」
ヴィタリ・セバスチャーノフ
 
ナードソン
生きてゆくのだと、星たちは僕に語った、
うららかな陽も、森も、小川も──
生きてゆくのだと、花たちは僕に囁いた。
落合東朗:訳
 
旅びとの夜の歌(Wanderers Nachtlied )Goethes
山やまのそら  Uber allen Gipfeln
しずまり  Ist Ruh,
こずえに  In allen Wipfeln
かぜの  Spurest du
そよぎもみえぬ  Kaum einen Hauch;
鳥のこえ森にしずむ  Die Vogelein schweigen im Walde.
ああ やがてもう  Warte nur, balde
おまえも やすらう  Ruhest du auch.
井上正蔵:訳
 
GOD PartⅡ(by U2
I heard a singer on the radio late last night
He says he's gonna kick the darkness til it bleeds daylight
I...I believe in love
                        『Rattlle and Hum』 より
 
ナディア
何をやるにも絶対に必要なもの、それは何をやるか選んで、それを愛し、夢中で取り組むことです。
                                                  ナディア・ブーランジェ
The essential conditions of everything you do ...must be choice, love, passion.
                                                Nadia Boulanger
 
 「世間」との関係を自覚しないですむようになった「好きなこと」。社会性という文脈での批評と対峙する回路を閉ざしてしまった「趣味」。それは「好きなこと」本来の安定性への歯止めを失い、その「好きなこと」に広い範囲の観客を世間から徴発し獲得してゆく自前の力を失わせる。もちろん、そうなってもたまたまそのような「好きなこと」を共有できるコードの備わった読者が存在している限りにおいて、その「好きなこと」は一定の知己を獲得はできる。しかし、それ以上の広がりを求めていくような、言い換えれば同時代の普遍へと向かってゆけるような表現を獲得してゆく可能性はどんどん狭められてゆく。そのような同時代の普遍へと向かう回路からもフィードバックせずともよくなった「好きなこと」は、表現のありようとしてますますある煮詰まりを見せてゆく。
 ある先鋭さ、ある優越性を確かに保ち上昇しながら、しかし、と同時に、確実に退縮し下降してもゆくような表現の「質」。
大月隆寛『「研究」という名の神』
 
出典不明(忘れちゃった・・・)
見てごらん、白人がどんなに残酷に見えることか。かれらの唇は薄くて、
鼻は鋭く、眼は冷たく、硬直して、いつもいらいらしながら何かを求めている。
白人たちはいつも何かを欲望している。いつも落ち着かず、じっとしていない。
かれらは気が狂っているのだと思う。
 
ボノ
不思議なことに、ボノは、数日前にダブリンで行われたアイルランドの雑誌、ホットプレス誌の受賞式に、グループを代表して出席した時も、同じ手を使っている。その晩も明らかに彼はすでに何杯かジャック・ダニエルのジンジャーエール割りを空けていた。「ほかの三人のメンバーもここに来るはずだったのですが」彼は抑揚をつけながら、短い奇妙なスピーチを行った。「彼らはどうでもいいと思ったらしく、来ていません。ぼくは関心があるんですけどね。彼らはみなさんのことが嫌いなんです。ぼくは大好きですけど」ここで彼は突然スティーヴィー・ワンダーの“アイ・ジャスト・コールド・トゥ・セイ・アイ・ラヴ・ユー”を口ずさんだかと思うと、再び続けて「彼らはここに来ていません。ぼくはあいつらが大嫌いなんです。みなさんに彼らがぼくの歌をメチャクチャにしてしまっていることをわかってもらいたい。彼らはレコードの中では実際にはプレイしていません。僕がプレイしているんです。エッジのサウンドは、あれは僕がやってるものです。ラリー・ミューレンは存在しません。彼はドラム・マシーンで、僕がプログラミングしてるんです。アダム・クレイトン、ヤツはU2の中で一番ナニが小さくて‥‥」とこんなことを語っている。
 
曹瞞伝より
曹操は軽薄な人柄で、威厳に欠けていた。音楽が好きで、いつも役者を側にはべらせ、昼も夜も遊び暮らしていた。薄い絹の服を着用し、腰には小さな皮の袋をぶら下げ、ハンカチや小物を入れていた。ときには、ふだんの冠をつけたまま賓客に会ったりもした。人と議論するときは、冗談まじりにしゃべりまくり、思ったことをそのまま口にした。上機嫌で大笑いしたはずみに、頭を卓上に突っ込んで、頭巾を食べ物でべとべとに汚してしまったこともある。その軽はずみな振る舞いは、かくのごとくであった。
 
誠之助の死
大石誠之助は死にました、
いい気味な、
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある、
然し、然し、
わたしの友達の誠之助は唯一人。
 
わたしはもうその誠之助に逢はれない、
なんの、構ふもんか、
機械に挟まれて死ぬやうな、
馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。
 
それでも誠之助は死にました、
おお、死にました。
 
日本人で無かつた誠之助、
立派な気ちがひの誠之助、
有ることか、無いことか、
神様を最初に無視した誠之助、
大逆無道の誠之助。
 
ほんにまあ、皆さん、いい気味な、
その誠之助は死にました。
 
誠之助と誠之助の一味が死んだので、
忠良な日本人は之から気楽に寝られます。
おめでたう。
与謝野鉄幹『誠之助の死』

歴史上等
 ですよ。と私はK編集に言った。新しい歴史小説雑誌を作ろうと画策中なのだがいいタイトルは他社に登録されていたりして、思案もいいのがなく、困っているとのことだったので、私がそう提案したのである。
「歴史上等」。いいと思うんだが。戦国弱肉強食の時代、古い権威、既得権益者どもを覆しまくった推参なり是非もない英雄たちの群像。すごく上等だ。
 ウンコ座りして木刀を持って腹にさらしを巻いて死に装束の白の特攻服を着たニイちゃんたちが、
「オレら歴史上等っスから。織田信長だろーが諸葛孔明だろーが、ただイクだけっす」
 というようなカブキ心に満ち満ちた雑誌名である。むろん上着とズボンには、「歴史夜露死苦」とか刺繍がしてあり、腕には司馬遼命とか隆慶命とか工夫を凝らしたタトゥーが掘り込んであるわけだ。表紙にはスプレーで参上と書くべし。
酒見賢一陋巷に在り』2巻(文庫)のあとがきより
 
 昭和二十年の終戦と共に、どっと外地から引き揚げて来た復員兵士たちの中で、人を殺した男はその顔付きで、即座に分ったものである。戦場の昴ぶりが消えた瞬間に、それはどす黒いしみのように顔に浮び上ってくるのだった。
 中でも戦闘の中ではなくて人を殺した男、即ち捕虜を斬り、或は無辜の民衆を殺戮した男たちは悲惨だった。どんなに言葉を飾り、何もしなかったように顔は作っていても、枕を並べて寝てみるとすぐ分る。殆んど例外なく、異常に魘される。時には悲鳴をあげてがばと跳ね起きるのである。こんな奴が、と思うような穏やかな男が、この症状を呈するのを何度も見ている。
 勿論誰一人彼らを責める者はいなかった。戦争はそれ自体が巨大な狂気である。狂気の中にあって生き永らえるには、己れ自身も狂気になるしかない。人が生き永らえた事を責めるのは過酷にすぎるだろう。戦場帰りの男たちは、一度も戦場を味わず、従って人を殺すこともなかった者でさえ、例外なくそうした優しさを持っていた。自分が人を殺さずにすんだのは、単なる偶然にすぎず、その場にぶつかれば必ずや殺したであろうことを、実感として知っていたからである。
 戦場にいたこともないくせに、声高に個人の戦争責任を云いたてる人間を見ると、ぶち殺してやりたいと思った。実際はぶち殺しもせず、抗議をすることさえせずにすませたのは、大方は深い侮蔑感からである。殺す値打ちもない人間共なのだ。

 高校卒業後、ぼくは全快を危ぶまれる大病に臥してしまった。絶対安静、横を向くことも本を読むこともラジオを聴くことも許されない生活、ぼくの救いは心の中で音楽を演奏すること、ワルターのように美しく演奏することだけであった。
 大指揮者への敬愛の念はやがて手紙を出すことを思いつかせた。それは最も尊敬する芸術家への讃美であった。しかし世界的な大指揮者が日本の一ファンへ返事をくれるなどとは夢にも思わず、ただただ自分の心が通じてくれることだけを祈っていた。ところが二ヶ月半の後、思いかけずドイツ語で書かれた長い手紙が、サイン入りの写真と共に届けられたときの歓喜はとても言葉では言い表せない。
「若くして病気に倒れているあなたを思うと心が痛みますが、必ず全快されることを私は信じています。むしろこの病気を一つの試練として立派な音楽家になってください。
     一九五二年七月十二日、ブルーノ・ワルター
 敬愛する芸術家の誠のこもった言葉に感激しないものがあろうか。ぼくの病気が一日一日と快方に向かい、やがて手術を受けられるまでに至ったことはいうまでもない。いわばワルターはぼくの命の恩人なのである。
宇野功芳『名指揮者ワルターの名盤駄盤』
 
石岡和己
 ……すると、御手洗のソロが始まった。それまでおとなしくしていた彼のギターが、会場の床をびりびりと震わせるような、とてつもない音をたてた。大きくて重いドアが、ゆっくりときしるような物凄い音だった。私は、まずこの音に度肝を抜かれた。そして今、自分の扉が開いたと感じた。なんの扉かは知らないが、私は、自分の心の内にある何かの扉が、今強引に押し開かれたのを感じた。胸が波立つような気分だった。不思議なことだが、私はこの時、自分は変われると思った。きっといつの日にか、変わることができると確信した。
 ……すると老人のトランペットが入ってきて、「ストロベリィ・フィールズ」の主旋律を、ゆっくりと、崩さず吹いた。それは、まったく宝石のような瞬間だった。観客が息を呑むのが解った。魂が自由になり、宙に浮かぶのを感じた。どうして彼らはこんな音がたてられるのだろうと、私は心から不思議に思った。われわれと違わない人間として生まれ落ちたはずなのに、どうして彼らにだけ、こんなことができるのだろう。
 しかしそれはもう嫉妬でも、自分に劣等感を強いる何かでもない、ただひたすら、音楽というものの意味を考えた。音楽には、こんなことができるのだと知ったのだ。これは凄いことだ。そして、なんと素晴らしいことだろう。今この瞬間に自分が居合わせたことを、心から神に感謝した。私は幸せだと感じた。こんな取得のない自分だが、生きていてよかったと思ったのだ。
島田荘司『SIVAD SELIM』
 
ポピュラー・カルチャーというのはとてもとても〈良いもの〉だ。しかも、誰もがその良さを知っており、『イェ~!』と声を出したくなるものさ。逆に、マス・カルチャーというのはすごく〈悪いもの〉で、誰もがその悪さを知っているんだけど、『イェ~!』と言ってしまうものなんだ。つまり、マス・カルチャーは基本的な好き嫌いに関係し、ポピュラー・カルチャーはより高いレベルで我々が熱望するものに対して使われる言葉だ。ポピュラー・カルチャーの例としてはビートルズボブ・ディランジミ・ヘンドリックスなんかがそうだ。

 一目で小柄なのが目立つ人だった。ひどくやせぎすで顔は蒼白、ただ髪はたっぷりみごとな金髪で、本人もそれが自慢らしかった。わざわざ自宅に招いてくれたことがあったが、私も遠慮なしにおしかけて、長居をした。あの人は始終なにくれと気をつかってもてなしてくれた。大のパンチ好きで、その飲物をがぶ飲みするのをよく見たものだ。もうひとつ目がなかったのはビリヤードで、家にはすごい撞球台があった。何ゲームも手合わせしたが、どうしても勝てなかった。彼の開く日曜日のコンサートを、私は欠かさないよう心がげた。気立てがやさしく、思いやりのある反面、たいそう気難しいところがあって、演奏の最中に、ちょっとした物音でも立てられると、ぷいと止めてしまうのだった。      ──マイケル・ケリー『回想録』
 
 聖歌隊がほんの数小節も歌わぬうちに、モーツァルトは、「これは何だ?」と叫び、彼の心全体が耳に集まっているようだった。そして歌が終わると、彼は喜びを抑えきれぬ様子で言い切った。「これは文句なしに、みんなのお手本だ!」セバスチャン・バッハが聖歌隊長であったこの学校は、バッハのモデットの完全なコレクションを持っていて、それらを一種の聖なる形見として保存していると教えられた彼は、「それは当の得たことだ、結構なことだ」と声を高め、「見せてほしい」と言った。しかし、これらの声楽作品のスコアはなかったので、彼は、パ-ト譜を求めた。ところで、傍らでつつましやかに見ている者にとって、モーツァルトが全身熱くなって座り、楽譜のいくつかは手に持ち、他は膝の上やあたりの椅子の上に置き、そこにあるバッハのものを全部じっくり調べあげるまで立とうともしないのを見るのは喜びだった。
 その同じ日、後で、モーツァルトはまたオルガンのところへ行った。
〔彼は〕どんなテーマを与えられても、すばらしい即興演奏をした。……ドーレスは、モーツァルトの演奏にすっかり喜んで、彼の師、懐かしいセバスチャン・バッハがよみがえったのだと確信した。
フリードリヒ・ロホリッツ「ライプツィヒの音楽雑誌から」
 
若き日のゲーテ
「私があのかたのところへ参りましたときは」と彼は言った、「あの方はまだ二十七歳ぐらいだったでしょう。おそろしく痩せて、かるがるしていて、華奢な人でしたから、この私がらくらくとおんぶできるくらいでしたよ。
ヴァイマルへ住むようになった初めの頃でも、ゲーテは快活そのものだったか、と私はたずねた。「もちろんですよ」と彼は答えた、「仲間の人たちも陽気でしたし、あのかたも陽気でしたが、決して度を過ごされるようなことはありませんでした。そういうときは、かえっていつも真面目になられるのですよ。たえず仕事をし、研究をし、心を芸術と学問にむけておいででしたが、それがまずおおよそのご主人の持続的な傾向でした。晩になると、太公がちょいちょい訪ねておいでで、そんなときには、たびたび夜中まで学問上のことで話し合っておられるので、私はよく退屈して、太公はどうしてまだお帰りでないのか、と恨みがましく思うこともしばしばでした。それに、」と彼はつけ加えた、「自然研究は、当時からすでにあのかたの関心事になっていましたね」
エッカーマンゲーテとの対話』
 
 当時、青少年としての私が感じていたことは、大人たちはうそばかりついているのではなく、純粋な面もあり、うそはつきたくないと思っているのだということ、さらに、そのうそのなかにも一片の真実があるということ、最後に、私自身、その種のうそをつきかねないということでした。私は総体として大人を信じていいとおもっていました。
 そのころも今も、私は、なんどかその信頼を裏切られました。しかし、私は性こりもなく、また信頼する。人間は総体として信頼していいのだとおもいなおすのです。
 もし青春ということばに真の意味を与えるなら、それは信頼を失わぬ力だといえないでしょうか。不信の念、ひがみ、それこそ年老いて、可能性を失ったひとたちのものです。たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。
福田恒存『私の幸福論』
 
信仰について
 「宗教は人類を救い得るか」という問題に関し意見を求められたが、私はそんな大問題に答える資格はないと思う。そんな風に訊ねられると、私はただ困却するばかりです。徒らに大袈裟な問題だと感ずるばかりです。
 万人が考える通りに考えることは可能だし、そういう考え方が一番有力でもあるが、信仰という事になると、めいめいが、めいめいの流儀で信仰する他はなく、又そうであるからこそ考えるという事に対して信ずるという行為があるのだろう。こんな簡単な事が、徹底的に腹に這入っていないから、宗教問題がいつまでたっても埒があかないのだと思われます。
 「宗教は人類を救い得るか」という風に訪ねられる代わりに「君は信仰を持っているか」と聞かれれば、私は言下に信仰を持っていると答えるでしょう。「君の信仰は君を救い得るか」と言われれば、それは解らぬと答える他はない。私は私自身を信じている。という事は、何も私自身が優れた人間だと考えているという意味ではない。自分で自分が信じられないという様な言葉が意味をなさぬという意味であります。本当に自分が信じられなければ、一日も生きていられる筈はないが、やっぱり生きていて、そんな事を言いたがる人が多いというのも、何事につけ意志というものを放棄するのはまことにやすい事だからである。生きようとする意志を放棄すれば進んで死ぬ事さえ出来ない。ただ生きている様な気がしている状態に落入る。まことにやすい事です。
 例えば、私は何かを欲する、欲する様な気がしているのではたまらぬ。欲する事が必然的に行為を生む様に、そういう風に欲する。つまり自分自身を信じているから欲する様に欲する。自分自身が先ず信じられるから、私は考え始める。そういう自覚を、いつも燃やしていなければならぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ。信仰は、私を救うか。私はこの自覚を不断に救い出すという事に努力しているだけである。
 後は、努力の深浅があるだけだ。他人には通じ様のない、自分自身にもはっきりしない努力の方法というものがあるだけだ。あらゆる宗教に秘義があるというのも、其処から来るのでしょう。私は宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれはきっと奇蹟なんかではないでしょう。彼等の清らかな姿は、私にこういう事を考えさせる、自己はどんなに沢山の自己でないものから成り立っているか、本当に内的なものを知った人の眼には、どれほど莫大なものが外的なものと映るか、それが恐らく魂という言葉の意味だ、と。神は人類から隠れているかどうかわからない。併し私の魂が私に隠れて存する事を疑う事が出来ぬ。富とか権力とかいう外的証拠を信用しないという事なら、そんなに難しい事ではないだろうが、知識も正義も、いや愛や平和さえ、外的証拠に支えられている限り、一切信用する事が出来ないという処まで行く事は、何んと難しい業だろう。懐疑派とは臆病な否定派に過ぎますまい。以上、御約束による早急な御返事、お答えにはなっておらぬ点は、御諒承下さい。
小林秀雄『信仰について』
 
 うん、僕もよく覚えてない。覚えていないが、しかし、やはり何ごとかを感じ、何ごとかを考えていたことだけは確かなのだ。だから僕は、なんとかそれを思い出したい。 どうしてもそれを思い出したいばかりに、僕らは思索し、想像するのだ。宇宙に惹かれてやまない僕らの心は、実は、他でもない僕ら自身を探しているのだ。僕ら自身を確かめたいのだ。汝自身を知れ、四十六億年前、僕はそこで何をどのように感じていただろう。いや僕自身が彗星ならば、何をどのように感じるだろう──。
 謎だ。そして、明らかに、懐かしい。
池田晶子『さよならソクラテス
 
内部の友
 八月のはじめ、蓼科での講演からかえった私は、その夜寝られぬほどの高熱を発し、輾転としてあけ方まで呻吟した。ようやく小康を得、うとうととまどろむと、高橋の夢を見た。彼は私の枕もとで、誰やらわからぬまっ黒な人物と碁をうっていた。おい、高橋! とよんでも返事はなく、やがてすうっと立ってむこうへ消えた。黒い人物もいつの間にか消え、あとにうちかけの碁盤がのこった。碁は中盤だった。彼は私との間にも、うちかけの碁をおいて去ってしまった。
 もう一度、「対話叢書」の予告の彼の言葉をひかせていただきたい。
「多分、人は一つの世界にだけ生きるのではない。小さな断片、かすかな持続にすぎなくとも、多くの場所に生きる。目には見えず、手にはつかむことも出来ない他人の心の中に」
 ──彼自身にとっての彼が消滅してしまった今、彼はもう他人の心の中にしか生きられなくなった。もちろん、私の心の中に、彼は、いきいきと生きている。私の内部の高橋に、おい、高橋、とよびかけ、返事をさせることもできる。しかし、その高橋は永遠に三十九歳のままであって、実在の彼の、瞠目すべき変貌によって、彼の内部の、新しい理論構築の発展によって、やったぞ! 高橋、おれはこれを読んで、生まれて今まで生きてきた甲斐があったと思うぞ──と叫べるような作品をとどけてくれることによって、「内部の高橋」像を修正して行くうれしさとたのしみを味わう事は、もはや永遠に期待できない。
 うちかけの碁もまた、この先うちつづけられる事はないであろう。
小松左京『「内部の友」とその死』
 
西行二十首
心なき身にもあはれは知られけり
          鴫立沢の秋の夕ぐれ
 
空になる心は春の霞にて
          世にあらじとも思ひたつかな
 
年たけて又こゆべしと思ひきや
          命なりけりさよの中山
 
何事のおはしますかは知らねども
          かたじけなさになみだこぼるる
 
世の中を思へばなべて散る花の
          わが身をさてもいづちかもせん
 
ましてまして悟る思ひはほかならじ
          吾が嘆きをばわれ知るなれば
 
まどひきてさとりうべくもなかりつる
          心を知るは心なりけり
 
心から心に物を思はせて
          身を苦しむる我身なりけり
 
うき世をばあらればあるにまかせつつ
          心よいたくものな思ひそ
 
見るも憂しいかにかすべき我心
          かかる報いの罪やありける
 
なべてなき黒きほむらの苦しみは
          夜の思ひの報いなるべし
 
塵灰にくだけ果てなばさてもあらで
          よみがへらする言の葉ぞ憂き
 
あはれあはれこの世はよしやさもあらば
          あれ来む世もかくや苦しかるべき
 
すさみすさみ南無と称へし契りこそ
          ならくが底の苦にかはりけれ
 
春風の花をちらすと見る夢は
          覚めても胸のさわぐなりけり
 
物思ふ心のたけぞ知られぬる
          夜な夜な月を眺めあかして
 
ともすれば月澄む空にあくがるる
          心のはてを知るよしもがな
 
いつかわれこの世の空を隔たらむ
          あはれあわれと月を思ひて
 
風になびく富士の煙の空に
          きえて行方も知らぬ我思ひかな
 
願はくば花の下にて春死なん
          そのきさらぎの望月のころ
 
長氏、若き人の為にとて、二十一条の教を述ぶ。第一に、仏神を信じ申すべき事。第二に、朝に早く起き。第三に夕には五つ以前(午後八時)に寝定まるべし、寅の刻(午前四時)に起き、行水拝みし、身の行儀を整え、其日の用所、妻子家来の者に申付け、猪六つ以前に出仕すべし。第四に、手水を使はぬ前に、厠より厩、庭、門外まで見廻り、先ず掃除すべきところを、似合の者に 言付け、手水早く遣ふべし。第五に、拝みをする事、身の行なり。第六に、刀、衣装人の如く結構にあるべしと思ふべからず、見苦敷なくばと心得べし。第七に、出仕の時は、申に及ばず、宿所にあるべしと思ふとも、髪をば早く結ぶべし。第八に、出仕の時無差と御前へ参るべからず。第九に、仰出さるゝ事あらば、遠くに伺候申たりとも、先ず早く唯と御返事を申し、頓に御前へ参り御側へ匍匐寄り、謹みて承はるべし。第十に、御通にて物語抔する人の辺りに居るべからず、傍へ寄るべし。第十一、数多交はりて事勿れと云ふことあり、何事も人に任すべきなり。第十二、少しの間あらば、物の本、文字あるものを懐に入れ、常に人目を忍び見るべし。第十三、宿老御縁に伺候の時、腰を少し折りて、手を突き通るべし。第十四、上下万民に対し、一言半句、戯言を申べからず。第十五、歌道なき人は、無手に賤し、学ぶべし。第十六、奉公の隙には、馬に乗り習ふべし。下地を達者に乗り習ひて、用の手綱以下は、稽古すべきなり。第十七、良友を求むべきは、手習学問の友なり、悪友を除くべきは、碁、将棋、笛、尺八の友なり。第十八、宿に帰らば、厩、表より裏へ廻はり、四壁狗貫を塞ぎ拵ふべし。第十九、夕に六つ時に門をはたとたて、人の出入に依て開閉すべし。第二十、台所中居の火の廻り、夕々我と見廻はり、堅く申付くべし。第二十一、文武、弓馬の道は常なり、記すに及ばず、文を左にし、武を右にするは古の法、兼ねて備へずんばあるべからず。
北条早雲『二十一箇条の教え』
 
和歌でない歌(中島敦
遍歴
ある時はヘーゲルが如(ごと)万有をわが体系に統べんともせし
ある時はアミエルが如つゝましく意気をひそめて生きんと思ひし
ある時は若きジイドと諸共に生命に充ちて野をさまよひぬ
ある時はヘルデルリンと翼(はね)並べギリシャの空を天翔りけり
ある時はフィリップのごと小さき町に小さき人々を愛せむと思ふ
ある時はラムボーと共にアラビヤの熱き砂漠に果てなむ心
ある時はゴッホならねど人の耳を喰ひてちぎりて狂はんとせし
ある時は淵明が如疑はずかの天命を信ぜんとせし
ある時は観念(イデア)の中に永遠を見んと願ひぬプラトンのごと
ある時はノヷーリスのごと石に花に奇しき秘文を読まむとぞせし
ある時は人を厭ふと石の上に黙(もだ)もあらまし達磨の如く
ある時は李白の如く酔ひ酔ひて歌ひて世をば終らむと思ふ
ある時は王維をまねび寂として幽篁の裏にひとりあらなむ
ある時はスウィストと共にこの地球(ほし)のYahoo共をば憎みさげすむ
ある時はヴェルレエヌの如雨の夜の巷に飲みて涙せりけり
ある時は阮籍がごと白眼に人を睨みて琴を弾ぜむ
ある時はフロイドに行きもろ人の怪しき心理(こころ)をさぐらむとする
ある時はゴーガンの如逞ましき野生(なま)のいのちに触ればやと思ふ
ある時はバイロンが如人の世の掟蹂躪り呵々と笑はむ
ある時はワイルドが如深き淵に堕ちて嘆きて懺悔せむ心
ある時はヴィヨンが如く殺め盗み寂しく立ちて風に吹かれなむ
ある時はボードレールがダンディズム昂然として道行く心
ある時はアナクレオンとロビンのみ語るに足ると思ひたりけり
ある時はパスカルが如心いため弱き蘆をば讃め憐れみき
ある時はカザノヷのごとをみな子の肌をさびしく尋(と)め行く心
ある時は老子のごとくこれの世の玄のまた玄空しと見つる
ある時はゲエテ仰ぎて吐息しぬ亭々としてあまりに高し
ある時は夕べの鳥と飛び行きて雲のはたてに消えなむ心
ある時はストアの如くわが意志を鍛へんとこそ奮ひ立ちしか
ある時は其角の如く夜の街に小傾城などなぶらん心
ある時は人麿のごと玉藻なすよりにし妹をめぐしと思ふ
ある時はバッハの如く安らけくたゞ芸術に向はむ心
ある時はティチアンのごと百年(ももとせ)の豊けきいのちを生きなむ心
ある時はクライストの如われとわが生命を燃して果てなむ心
ある時は眼・耳・心みな閉ぢて冬蛇のごと眠らむ心
ある時はバルザックの如コーヒー飲みて猛然と書きたる心
ある時は巣父の如く俗説を聞きてし耳を洗はむ心
ある時は西行がごと家をすて道を求めてさすらはむ心
ある時は年老い耳も聾ひにけるベートーベンを聞きて泣きけり
ある時は心咎めつゝ我の中のイエスを逐ひぬピラトの如く
ある時はアウグスティンが灼熱の意慾にふれて焼かれむとしき
ある時はパオロに降りし神の声我にもがもとひたに祈りき
ある時は安逸の中ゆ仰ぎ見るカントの「善」の厳くしかりし
ある時は整然として澄みとほるスピノザに来て眼をみはりしか
ある時はヷレリイ流に使ひたる悟性の鋭(と)き刃身をきずつけし
ある時はモツァルトのごと苦しみゆ明るき芸術(もの)を生まばやと思ふ
ある時は聡明と愛と諦観をアナトオル・フランスに学ばんとせし
ある時はスティヴンソンが美しき夢に分け入り酔ひしれしこと
ある時はドオデェと共にプロヷンスの丘の日向に微睡(まどろ)みにけり
ある時は大雅堂を見て陶然と身も世も忘れ立ちつくしけり
ある時は山賊多きコルシカの山をメリメとへめぐる心地
ある時は縄目を解かむともがきゐるプロメシュウスと我をあわれむ
ある時はツァラツストラと山へ行き眼鋭(まなこす)るどの鷲と遊びき
ある時はファウスト博士が教へける「行為(タート)によらで汝(な)は救はれじ」
遍歴(へめぐ)りていづくにか行くわが魂(たま)ぞはやも三十(みそじ)に近しといふを
憐れみ讃ふるの歌
ぬばたまの宇宙の闇に一ところ明るきものあり人類の文化
玄々たる太沖の中に一ところ温かきものありこの地球(ほし)の上に
おしなべて暗昧(くら)きが中に燦然と人類の叡智光るたふとし
この地球の人類(ひと)の文化の明るさよ背後(そがひ)の闇に浮出て美し
たとふれば鉱脈にひそむ琅カンか愚昧の中に叡智光れる
幾万年人生(あ)れ継ぎて築きてしバベルの塔の崩れむ日はも
人間の夢も愛情(なさけ)も亡びなむこの地球の運命(さだめ)かなしと思ふ
学問や芸術(たくみ)や叡智(ちゑ)や恋愛情(こひなさけ)この美しきもの亡びむあはれ
いつか来む滅亡(ほろび)知れれば人間(ひと)の生命(いのち)いや美しく生きむとするか
みづからの運命(さだめ)知りつゝなほ高く上らむとする人間(ひと)よ切なし
弱き蘆弱きがまゝに美しく伸びんとするを見れば切なしや
人類の滅亡の前に凝然と懼(おそ)れはせねど哀しかりけり
しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の息の夜の苦しかりとも
あるがまゝ醜きがまゝに人生を愛せむと思ふ他に途(みち)なし
ありのまゝこの人生を愛し行かむこの心よしと頷きにけり
我は知るゲエテ・プラトン悪しき世に美しき生命(いのち)生きにけらずや
吃として霜柱踏みて思ふこと電光影裡如何に生きむぞ
石とならまほしき夜の歌 八首
石となれ石は怖れも苦しみも憤(いか)りもなけむはや石となれ
我はもや石とならむず石となりて冷たき海を沈み行かばや
氷雨降り狐火燃えむ冬の夜にわれ石となる黒き小石に
眼瞑(と)づれば氷の上を風が吹く我は石となりて転(まろ)び行くを
腐れたる魚(うを)のまなこは光なし石となる日を待ちて我がゐる
たまきはるいのちを寂しく見つめけり冷たき星の上にわれはゐる
あな暗や冷たき風がゆるく吹く我は堕ち行くも隕石がごと
なめくじか蛭のたぐひかぬばたまの夜の闇処(くらど)にうごめき哂ふ

また同じき夜によめる歌 二首

ひたぶるに凝視(みつ)めてあれば卒然にして距離の観念失くなりにけり
大小も遠近もなくほうけたり未生の我や斯くてありけむ
何者か我に命じぬ割り切れぬ数を無限に割りつゞけよと
無限なる循環小数いでてきぬ割れども尽きず恐しきまで
無限なる空間を堕ちて行きにけり割り切れぬ数の呪を負ひて
我が声に驚き覚めぬ冬の夜のネルの寝衣(ねまき)に汗のつめたさ
無限てふことの恐(かし)こさ夢さめてなほ暫らくを心慄へゐる
この夢は幼き時ゆいくたびかうなされし夢恐しき夢
今思(も)へば夢の中にてこの夢を馴染の夢と知れりし如し
ニイチェもかゝる夢見て思ひ得しかツァラツストラが永劫回帰
むかしわれ翅をもぎける蟋蟀が夢に来りぬ人の言葉(くち)きゝて
何故か生埋にされ叫べども喚けど呼べど人は来らず
叫べども人は来らず暗闇に足の方より腐り行く夢

夢さめて再び眠られぬ時よめる歌

何処やらに魚族奴等(いろづくめら)が涙する燻製にほふ夜半(よは)は乾きて
放歌
我が歌は拙なかれどもわれの歌他(こと)びとならぬこのわれの歌
我が歌はをかしき歌ぞ人麿も憶良もいまだ得詠まぬ歌ぞ
我が歌は短冊に書く歌ならず町を往きつゝメモに書く歌
わが歌は腹の醜物朝泄(ま)ると厠の窓の下に詠む歌
わが歌は吾が遠つ祖(おや)サモスなるエピクロス師にたてまつる歌
わが歌は天子呼べども起きぬてふ長安の酒徒に示さむ歌ぞ
わが歌は冬の夕餐(うたげ)の後にして林檎食(を)しつゝよみにける歌
わが歌は朝の瓦斯にモカとジャワ゛のコーヒー煮つゝよみにける歌
わが歌はアダリンきかずいねられぬ小夜更床(さよふけどこ)によみにける歌
わが歌は呼吸(いき)迫りきて起きいでし暁(あけ)の光に書きにける歌
わが歌は麻痺剤強みヅキヅキと痛む頭に浮かびける歌
わが歌はわが胸の辺の喘鳴(ぜんめい)をわれと聞きつゝよみにける歌
 
身体(うつそみ)の弱きに甘えふやけゐるわれの心を蹴らむとぞ思ふ
手・足・眼とみな失ひて硝子箱に生きゐる人もありといはずや
ゲエテてふ男思へば面にくし口惜しけれどもたふとかりけり
繊(ほそ)く剄(つよ)く太く艶ある彼の声の如き心をもたむとぞ思ふ (シャリアーピンを聞きて)
ゴッホの眼モツァルトの耳プラトンの心兼ねてむ人はあらぬか
 
Hot Ziggetty!
わたくしの家内があるとき昼食にスイス・チーズとライ麦のパンを出したところ、かれはこれを殊のほか喜んだ。それからというもの、かれは三度三度の食事にパンとチーズを食べたがるようになり、家内の用意した色々な料理を大部分無視するようになった。ヴィトゲンシュタインの言うには、自分が何を食べるかは、それがいつも同じである限り、自分の関心事ではない、というのである。特においしそうな料理がテーブルに運ばれてくると、わたくしは時々「こりゃすげえ(ホット・ジゲティ)!」と叫んだことがあった。――これはわたくしの少年時代、カンサスで覚えた俗語である。ヴィトゲンシュタインはこの表現をすぐとりあげた。家内がパンとチーズをかれの前におくと、かれが「こりゃすげえ」と叫ぶのを耳にするのは、想像もできない程おかしなことであった。
ノーマン・マルコム『回想のヴィトゲンシュタイン
 
ロックとは
・ロックに惹かれたことはないですか?
「……ロックで好きな曲は思い浮かばない。ジャズ、ヒップホップ、クラシック、アヴァンギャルド──大抵どんなタイプの音楽でも好きな曲は必ず見つかるんだけど、ロックとヘヴィー・メタルだけは、全然良い部分が見つからないんだ。音楽全体が全然革新的だと思えない。保守的でつまらなくて長年同じ所で停滞している。そこに音楽の大切な部分はない、と思う」
・でもあなたはジーザス・ジョーンズやセイント・エティエンヌなど、数多くの楽曲のリミクスを手掛けてますよね。それは何故、手を差し出すんですか?
「リミクスするのにマテリアルを気に入る必要はない。手掛けるのはむしろ、気に入らないマテリアルの方がいいんだ。悪ければ悪いほどいい。既に良い曲だと思ったら手を加えたくないからリミクスは断る。クソみたいな曲を自分の好きなようにリミクスして大金が手に入るならこれほど美味い話はないと思う。君が挙げた二つのバンドの仕事は、まさにそのスタンスだ。君の国のバンド、バクチク。彼らもヒドかった。・・・テリブルだったよ」
・ミもフタもない意見、ありがとうございます。
リチャード・D・ジェイムス
 
 でも実際私にとって特に大事であったのは、フォーレのクラスです。私たち生徒は、それぞれの人生を照らし、導いてくれたフォーレから多大な影響を受けました。彼の気品溢れるセンス、無類の慎み深さと冷静さ、その超俗的な視野に感化を受けたのです。口では旨く表せませんが、フォーレに学んだその数年間が忘れ難いものであることは確かです。フォーレの下で学んだ数年間を通じて彼がクラスで自分について話されたことは一度もなく、自作に関しては一節たりとも弾かれたことはありませんでした。また夢うつつであられたり、心ここに在らずのことはしょっちゅうでした。それゆえ先生を熱愛して止まなかった私たちでさえも、時には「今日の先生ったら上の空で、私たちの課題なんてあまり聴いていらっしゃらないわね!」と密かに思うこともあったのです。
 その後月日は流れ、ずっと後になってヴィーヌ通りにある先生のお宅に訪ねたときのことです。
 その頃すでに先生は健康を害され、お年も大分召しておられたのですが、雑談の途中で突如、「君にとって作曲を止めてしまったことが良かったかどうか私には疑問だね」とおっしゃったのです。
私は即座に「まあ先生! その事に関してだけは、断じて確信を持っておりますわ。無意味な音楽を書いて何になりましょう。ただでさえも人にあまり情け容赦のない私ですから、自分自身に対しては尚のこと厳しくあるべきじゃないでしょうか?」
 すると先生は立ち上がられるなりピアノの前まで歩いていかれ、何と私が十四、五歳の時分にクラスで書いた練習課題の一部を弾かれたのです。その課題の実例の内の一つくらいは、まぁ、まだ他の物よりは多少増しであったかも知れません。
 「やはりそこには普通じゃない、何かがあったんだよ」とおっしゃるのです。私は飛んでいって先生を抱き締めました。「まぁ、何てことでしょう! わざわざそれを覚えていてくださったなんて……」
 要するに若かりしあの日、私は「今日の先生は私たちのことなどあまり気にかけてくださってない!」と考えていたのですが、先生は実に何もかも聴き取り、すべてを記憶なさっていたのでした。
『ナディア・ブーランジェとの対話』
 
人生の一部
 「しかし」、とショスタコーヴィチは語るのである。その破滅は、実に偉大な破滅ではないですか。私は、ボロディンが化学実験室にこもっていたために、第二の『ダッタン人の踊り』を作曲しなかったのは、よいことだったと思う。新しいアリアを一曲完成させるかわりに、ボロディンが女性参政権のための集会に、演説に出かけてしまったのは、すばらしい行為だったと思う。彼の家が、まるで精神病院そのもので、そこには落ちついて作曲する環境がなかったとしても、それは彼の人生が失敗であったことを、いささかも意味しない。こんな中で、ボロディンは、彼の『交響曲第二番』をつくったのだ。あの『弦楽四重奏曲第一番』をつくったのだ……そして、ショスタコーヴィチは、万感の思いをこめて、こう語る。「ロシアの作曲家はこんなふうに生き、こんなふうに仕事をするのです」
 消防士のヘルメットをかぶって、不器用に屋根によじのぼり、爆撃に破壊されたレニングラードの街で、消火活動にいそしむ、ショスタコーヴィチの写真が残されている。そう、ロシアの作曲家は、こんなふうに生き、そしてこんなふうに仕事をするのです。破滅はいつ襲いかかってくるかもしれない。しかし、私たちロシアの作曲家は、合間を見て、仕事をするでしょう。音楽は人生の一部にすぎないのですから。でも、そのことが、音楽を美しいものとしているのではないでしょうか。人生のすべてではなく、人生の一部であるからこそ、それは美しいのではないでしょうか……。
中沢新一『音楽のつつましい願い』
 
英語の美
英語は音楽的言語にあらず。されども他の言語において発見し得るべからざる一美音のその中に存するあり、すなわちBeauty(美)におけるUの音これなり。これ単に<ユー>と響かすものにあらずして、くちびるを縮め、口笛を吹く時のさまをなして発音すべきものなり。Duty(義務)、Mutual(相互)等の言葉は、その意義においても、発音においても、英語特有の美を表すものと言うべし。
内村鑑三『外国語の研究』
 
なぜ小説は大切か
 小説に学ぼうではないか。小説では、登場人物はなんとしても生きなければならない。彼らが、善人であろうと、悪人であろうと、あるいは移り気であろうと、型にはまった人物になると、小説は死んでしまうからだ。小説の中の人物は生きねばならない。でなければ最初からいないのも同然である。
 生きていること、生きている人間であること、全人的に生きていること、これが一番大切だ。そのために最も生き生きとした小説こそが、君に力を貸してくれるのだ。人生において、死んだも同然の男にならないようにしてくれるのだ。今日では、あまりにも多くの男たちが、町や家で、屍同然になり、大部分が死んだままで徘徊している。女の本質の大部分も死んでしまっている。まるで鍵盤の大半が音を出さなくなって沈黙してしまったピアノのようだ。
 しかし小説は、男が死んだも同然になれば、女も生きる力を失うことをはっきり教えてくれる。聖と邪、善と悪の理論などこね回していないで、やる気さえ出せば生に対する直覚力を鋭くすることだってできるのだ。
D・H・ロレンス
 
敗戦
嫌悪に充ち満ちた古い日本であったが、さてそれが永訣の訣別となると、惻隠の情のやみ難きもののあることは、コスモポリタンの我ながら驚いた人情の自然である。何かいたわってやりたいような心のこる気持で、私はその日その日を送っていたが、かかる心に映るぎすぎすとうわずった、跳ね上がった言論の横行しはじめたことがどんなにやり切れなかったことだろう。また二の舞いかと心は沈む一方であったとき、私の心に素直に這入ってきてなぐさめになってくれた文章に、たった一つ川端康成氏の小さな感想文がある。島木健作を追悼して、「私の生涯は『出発まで』もなく、さうしてすでに終つたと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない。・・・」と静かに語る氏の言葉ほど当時その不思議な重量感をもって私の肺腑をついたものはなかった。敗戦に打ちのめされてほとんど身を起こすこともできないような痛痛しいこの作家の「声低く語れ」の葬送曲にくらべれば、他の浮々した発言はほとんどみな白々しい空語、空語、空語であった。
林達夫『新しき幕開け』