賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

NLOTHの曲から連想した文章をテケトーに列挙してみる

01.No Line On The Horizon
 あらゆる偉大な芸術においては、野生の動物が飼い慣らされている。
 たとえばメンデルスゾーンの場合、そうではないが。あらゆる偉大な芸術には、人間の原始的な衝動が、根音バスとして響いている。それは(もしかするとワーグナーの場合のような)メロディーではなく、メロディーに深さと力をあたえるものである。
 その意味で、メンデルスゾーンを「複製的」芸術家と呼ぶことができる。
 おなじような意味で、私が建てたグレーテルの家は、断固たる耳ざとさの、行儀よさの結果であり、(ひとつの文化などにたいする)偉大な理解の表現である。だがそこには、存分に荒れ狂いたい根源的な生命が、野生の生命が――欠けている。したがってこうも言えるだろう。そこには、健康が欠けている(キルケゴール)。温室植物。(ウィトゲンシュタイン「反哲学的断章」)


02.Magnificent
 誰に祈りを捧げるかは問題じゃない。大切なのはその人の信仰だ。信仰とはすなわち良心であり、その土台は子供時代に築かれる。もし人が宗教を変えるならば、自分の良心をも失うことになる。しかし、良心こそ人間の中で最も重要なことなんだ。ぼくは人間の良心を尊重する。だからぼくにとっては、人の宗教を批判したり、それについて幻滅させたりして、子供時代にしか培われないその人の良心を破壊することは大きな罪悪に思えるのだ。(グルジェフ「注目すべき人々との出会い」)


03.Moment of Surrender
 スピノザは、否定的なものに蝕まれたこの世界の中で、そうした死や人々の殺戮衝動を、さらには善悪・正邪の規範それ自体をも疑問とするに足るだけの充分な信頼を、生に対して、生のもつ力に対していだいていた。世界に跳梁するいっさいの否定的なものの幻影をあばいてしまうほど、充分な信頼を生に対していだいていたのである。(中略)すべての否定的なものには、その流れがひとつは外に向かい、ひとつは内に向かう二つの源があると彼は考える。怨恨とやましさ、憎しみと罪責感である。「人類の根源的な二つの敵、憎しみと後悔」。この二つの源泉は人間的意識のあり方に深く根ざしており、新たな意識なしには、世界の新たなとらえ方、生への新たな欲望のあり方なしには、それを根絶しえないことを、徹底して彼はあばき、示しつづけた。スピノザは自身の感覚、実験をとおして、身をもって自身が永遠であることを確かめたのだった。(ドゥルーズスピノザ」)


04.Unknown Caller
 いわば現世の「福音書」として、すなわち精神内部の明るさや外界の楽しさによって、私たちを重苦しい地上生活の重圧から解放するのが、真実のポエジイである。それは軽気球のように、私たちをつないでいる重石とともに、私たちを清らかな高い空へ引きあげる。そして、私たちの眼下に地上の錯綜した迷路を鳥瞰図的にくりひろげてみせる。清澄な作品といわず、深刻な作品といわず、あらゆる文学作品に共通する目的といえば、完璧な、すぐれた描写によって、人間的よろこびと悲しみを融和することだ。(ゲーテ


05.I'll Go Crazy If I Don't Go Crazy Tonight
 少女のからだは、地上高く持ち上げられ、彼女の孤独はいよいよぼくの胸をしめつけた。彼女が回転する。舞い上がる。人間の世界から見放され、だが孤独な空中で、少女は美の完璧のために、すべてを捧げていた。ブランコを揺すって、大きな反動をつけた彼女のからだが、高々と宙に浮かび上がった。ぼくの目は、観客といっしょに、それを追う。すると、突然、舞う少女のからだが、大きな月に飛び込んだのだ。ぼくはそこに満月を見た。すべてが、明らかだった。空中ブランコに舞う、この少女のすがたこそ、地上における人間の生を象徴するものだ。その真実は、太陽によってあきらかにされることはない。ただ、月だけが、このすさまじい光を放つ夜の月だけが、救いがたい悲哀の感情とともに、それをあきらかにしめすのだ。あの月を、ぼくは一生忘れることはない。(中沢新一「月下のサーカス」)


06.Get On Your Boots
 この足皮は、ひもと鉤ホックとでしっかりと足首にしばりつけられ、足は巻貝のからだのように、かたい殻の中にある。パパラギ(白人)は、この足皮を日の出から日の入りまで履き続け、マラガ(旅行)にも行けばダンスもする。たとえスコールのあとのように暑くても、脱ぐことはない。
 これはいかにも不自然なことだから、足はもう死にかけていて、いやな臭いがしはじめている。実際、ヨーロッパ人の足は、もうものをつかむこともできず、やしの木にだって登ることはできない。(「パパラギ」)


07.Stand Up Comedy
 ナポレオンはイギリス人たちを商売人の国民だといいましたが、まったく正しいことです。イギリス人たちがその国を支配するのは、商売のためと知らなければなりません。イギリス人たちの軍隊と艦隊はただ商売を守るためにあるのです。(中略)
 イギリス人たちの最高神はお金である、このことに留意するとすべてがはっきりします。(ガーンディー「真の独立への道」)


08.Fez -- Being Born
 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さな者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく、二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。(柳田国男「山の人生」)


09.White As Snow
 別の国に行って暮そうとした若い夫婦の話です。別の国に行くには、危険がいっぱいの広大な砂漠を越えなければなりません。夫婦は若い息子を連れていましたが、砂漠を越える途中で食料が尽きました。このままでは死んでしまいます。何度も話しあった末に、夫婦は幼い息子を殺してその肉を食べることに決めました。二人は子供を殺し、その肉の一片を食べました。それから残り肉を肩に抱え、日光に乾燥させながら進んでいきました。彼らは深く深く苦しみました。息子の肉の一片を食べるたび、狂ったように泣き叫びました。「私たちの可愛い息子よ、おまえはどこにいるんだ? 私たちの可愛い息子よ、おまえはどこにいるんだ?」。二人は自分の胸を叩き、髪をかきむしりました。そしてついに二人は砂漠を渡り終え、別の国に入りました。
 この話を僧たちに聞かせたあと、仏陀は尋ねました。「友よ、あなたがたはこの夫婦が息子の肉を食べることを喜べたと思いますか?」(ティク・ナット・ハン「あなたに平和が訪れる禅的生活のすすめ」)


10.Breathe
 合理的に考えてみれば、人生のことはすべて必然的に生起する。合理的な思惟の下では、自由の問題そのものが不可能になります。しかし自由はある。私たちが生きているとは自由を信じていることにほかならないからだ。外的必然に屈服すれば人間は一個のメカニスムとなるでしょう。内的自由が全能ならば人間は神になるでしょう。ところが人間は、そのどちらでもない。この中途半端な人間の状態を肯定するならば、進んでこの現実の状態は、必然とか自由とかという図式的な区別を超えたもっと深い状態であると信じた方がよいようです。そしてこういう思想は、各人の生き方のうちに、各人の自覚として現れてくるほかはない。充実した生は、中途半端な人間の現実の状態をそのまま純化しないか。生活の充実感とは、自由な意志が存在全体の必然関係から遊離せず、これと有機的に関係するという感覚ではないのか。個人の意欲と全体の存在との合一感ともいうべきものは、緊張した行為が否応なく人間に自覚させるものではないか。これが運命感である。(小林秀雄「悲劇について」)


11.Cedars Of Lebanon
 地平線の遥か彼方にまで、ガゼル、カモシカ、シマウマ、イボイノシシ等の巨大生物の群れが見えた。草をはみ、頭を上下に振りながら、動物たちは、緩やかに流れる川のように、前へ前へと移動していた。肉食の猛禽類があげるメランコリックな叫び以外には何の物音もしなかった。それは原始の静寂であり、世界がかつてそうであったような非存在という状態の世界であった。なぜなら、ほんの少し前までは、「この世界」があることを知る者は誰もいなかったからだ。私は同行者が見えなくなるとことろまで離れて行って、そこでただ一人でいるのだという感覚を味わった。この瞬間、私はこれが世界であることを認識した。そこでの私は、自分が知ることによってこの瞬間にはじめて世界を現実的に造り出した最初の人間だったからである。(「ユング自伝」)


12.No Line On The Horizon 2
 生きるということは、長く線を引くということでない。何千年か何万年か、ないし何億年でもかまわないが、始めのある生き方はまた終わりがなくてはならぬ。無限は、過去の方へも未来の方へもあてはめられなければならぬ。これは有限な直線ではいけない。実際は、直線はみな有限である。有限であるから直線なのである。無限を或る点で切ってみるから、そのあいだだけが直線なのである。無限は直線で有り得ない。ここから始まると言えば、ここで終わるということが既にそのとき定められている。そんな限定をうけるものは、生きていない。生はどうしても無限でなくてはならぬ。即ち直線であってはならぬ。(鈴木大拙「日本的霊性」)