賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

Highway Rule(Polysics)

心のなかでひそかに、無意識の耳は別の音律を聴きとっているのに、それが「音楽」となって表現にあらわれてくるときには、自分のものでない別の人々の歴史のなかからつくりだされてきた、別の音律のシステムを通してしか、それを聴きとることができなくなってしまったという事態に、もう長いこと私たちの耳は苦しんできたのである。深い記憶の底から浮かび上がってくる、その無意識の音律を聴きとるためには、まず私たちの耳の聴きとる能力を制限している「十二平均律」の圧倒的な働きを、いったん心のなかで解除してみる必要がある。そのとき世界は別の表情をして、私たちの前に立ちあらわれることだろう。
中沢新一『耳のための、小さな革命』より


最初、JUDAS / CHRISTさんの記事を拝見した時は、そんなのいくらでも挙げられる、むしろどの曲を選択するのかが問題だよなあと、わりと軽く考えていたんですよ。ヨンシーのSinking Friendshipsとか、フィーダーのForget About Tomorrowとか、マニックスMotorcycle Emptinessとか、ビートルズHere,There And Everywhereとか、脳みそが腐るほど聴き狂ったレディオヘッドReckonerとか、もういくらでもあるでしょと。

ところがところが、頭に思い浮かんだそれらの曲を吟味してみるに、どうもこれはJUDAS / CHRISTさんのお題の趣旨と合致しないんじゃなかろうかと。


 そのあたり、人によってツボは色々だと思うのだが(笑)、記事をお読みの皆さんはどうだろうか? ‘この曲のこの箇所を聴くと涙腺が緩む’というメロディがあったら、是非、コメント欄にてお教えいただきたいと思う(笑)。ジャンルは、ロック/ポップ、黒人音楽、歌謡曲、アニソン/特ソン、クラシック音楽、ジャズ、映画音楽、イージー・リスニング等々、何でも構いませんので(笑)。

つまり、今挙げた曲は「泣ける曲」という類のものであって、泣けるメロディーがあるからではない。必ずしもメロディーに感応してるというワケではないんだなあ、これが。
 
じゃあ、どの曲が該当するのかなと、結構時間をかけて記憶を探ってみたのですが、「あれ?もしかして、そういう曲が思いつかない?」と愕然としたのですよ。
 
つまり、自分は「メロディー」というものにほとんど関心を寄せてなかったのかと。よく考えたらメロディーに感動した記憶ってないぞ。
ですので、ビョークJogaを思い出した時は狂喜乱舞してしまったのですが(笑)、だがしかし、確かにあのメロディーに涙腺が緩むことは間違いないのですが、これも大きく言えば、「部分」(個所)ではなく、曲「全体」に感動してるのであって、やっぱり「泣ける曲」に分類されるのではないかと、コメントした後に考えてしまったのですよ。う~ん、正解が出てこない!
 
と、なかなか深刻な事態に立ち至ったのですが、そんな折、中公文庫から出た中沢新一の本(「ミクロコスモス」)を読んでたら、こんな一節があったのですよ。
 
 
私たち日本人を例にとってみますと、心の奥底、記憶の根底には、ペンタトニックな音楽が流れているのを感じ取ることができます。わらべ歌や地方の民謡のなかに濃厚に残っているものが、私たちのなかにもいまだに鳴り響いています。けれども、明治以降の音楽教育では、最初から平均律をもとに音楽の体験がつくられてきました。つまり、私たちは平均律で音楽をしながら、心の奥底では、不合理な音程でできた、別の音楽を聴きつづけているのかも知れません。(同上)
 
この文章でピンときたワタシは、最近すっかりご無沙汰のポリシックスを聴いてみました。大正解ですよ。JUDAS / CHRISTさんのお題、「この曲のこの箇所を聴くと涙腺が緩む」曲が何曲もありました。
とりわけ、このHighway Ruleはすばらですね。
 
 
 

 

 
このメロディーに涙腺が緩むワケですよ。松ちゃんの言うとおり、何を歌ってるのかなんてどうでもいいんですよ。ただただメロディーが泣けるんですねえ。
ということで最近またポリシックスを聴き返してます。なんでしょうか「ああ、日本人のバンドだなあ」と感慨をあらたにしましたよ。以前にもポリについてファンレターを書き綴ったことがあるですが、改めて「ポリは日本の誇り」と思いました(笑)。不思議で黄色い愛情生まれの国!国!