賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

二つの自由

角川文庫から出ている、小林秀雄の『常識について』という本に、「自由」という題名のエッセイがあって、二つの「自由」、LibertyとFreedomについての違いが述べられている。
この二つの自由に関して色々な解釈の仕方があるようだが、たとえば、人権擁護法案みたいなものは、リバティーを守るためにフリーダムを破壊するようなシロモノだ。これを日本語に直すと自由を守るために自由を破壊するということになる。これはワケが分からない。英語で言えば話が早いんじゃないかという気がしてくる。

 

また、こういう風にも考えてみた。ロックシンガーとしてのボノさんは、フリーダムを守るために闘い、社会活動家としてのボノさんは、リバティーを守るために戦っていると。
この二つの自由を混同することによって、「偽善者ボノ」が出来上がると。どうかな?


まあ、単なる思いつきですので、聞き流して欲しいのですが、相変わらず小林秀雄は色々考えさせてくれるなあ。『文学と人生』という座談で、彼はこんなことを言っている。

 

散文ってものはね、そこがまた面倒なところだが、まずくてもおもしろい文章だってあるんだ。生きている文章ってものがある。うまくたって死んでいる文章がある。死んでいる文章は私には縁がないの。少し読んでいれば死んでいるか生きているかわかるんだから。贅沢なはなしじゃないと思ってるだけだよ。人間はだれだって、文章なんかに関係なく生きた言葉を使っているんだからね。使わざるを得ないだろう。そういうあたりまえのことが文章にでてなきゃ駄目じゃないか、というだけのことだ。言葉の混乱などということと問題が違う。混乱したってちっともかまやしない。混乱したって生きた文章ってものはあるわけですよ。

 

自分は果たして、生きた文章を使っているのだろうか、ドキドキ。
そんな怖い考えは、とりあえず置いといて、上記の「文章」を「マンガ」に置換してみたまえ。
まずくても面白いマンガだってあるんだ。生きているマンガってものがある。上手くたって死んでいるマンガがある。死んでいるマンガはワタシには縁がないの。少し読んでいれば死んでいるか生きているか分かるんだから
いやあ、一度でいいから、こんな風に言ってみたいなっ。