賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

「死してなお踊れ 一遍上人伝」(栗原康)が面白かった

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一遍上人って言いますと、踊り念仏の人で、人々を救うために踊って踊って踊りまくったというイメージで、なんというかロックですよね

 
ロックがなくてもロールがあるぜ!って感じですけど(どんな感じじゃ)、「捨ててこそ」という言葉通り、死後はなんにも残さなかったというのもロック。そういう意味で上人と呼ばれるお坊さんの中では一番親近感があるお人です。
 
この本はその一遍上人の評伝。文章がまたロックでねえ、ロクでもないんですよ。
そのひらがなばっかな踊りくねった文章にはシビれました。
 
とりあえず手に取ってご覧くださいとしか言えないのですが(ちなみにワタシは作者のことなんにも知りません)、一番心を動かされたのは「おわりに」にある空也上人のお話でした。一遍じゃないんかい!
 

いや、一遍上人の評伝も凄く良かったんですけど、短いエピソードながら空也上人が踊り念仏を始めるきっかけとなった話が感動的だったので、そこを引用させていただきます。

 
 しかし、このシカの角ってなんなんだろう。そうおもってると、かなりくわしく解説がかいてあった。みんなで食いいるようにむさぼりよんだ。こうかいてある。
空也は九〇三年うまれ。醍醐天皇の第二皇子としてうまれ、出家して、念仏をお寺のなかや貴族のためだけでなく、衆生にひろめるために全国をわたりあるいた。金持ちだけじゃない、貧乏人もみんなすくわれないとダメなんだと。
とちゅうから、京都の街なかに的をしぼって、念仏をひろめはじめた。もちろん念仏をとなえたって、さいしょはいまいち衆生につたわらない。意味がわからないのだから。無視されたか、あるいは、あたまのおかしい乞食坊主あつかいだったろう、トホホ。
 そんな空也が中休みのために、鞍馬山にひきこもっていたときのことだ。野山にでて、念仏をとなえていると、シカがよってきて気持ちよさそうに念仏をきいてくれた。
おお、オレのことをわかってくれるのか。人間すらわかってくれないのに。うれしくなって、ひたすらナムナムと念仏をとなえた。すると、シカもシカで、フオオオ、フオオオオオオ!!! と、全力で鳴き声をあげてくれる。
いいよ、いいよ、山河草木、ふく風たつ波の音さえも、なむあみだぶつともうしけり。畜生の鳴き声だって、念仏だ。空也は毎日、シカの鳴き声をきくのが楽しみになった。なんかさとった気がする。
 でも、ある日のことだ。シカがばったりとこなくなる。夕方になっても、夜になっても、鳴き声さえきこえてこない。どうしたことだろう。
村人にきいてみると、衝撃の事実がわかった。猟師の定盛というやつが、弓矢で射殺して食ってしまったというのである。ああっ、ああっ。空也はショックで嘆きかなしんだ。元気がなくて、もう死にそうだ。
すると、そのはなしをきいた定盛もびっくりしてしまう。ガーン。オレはなんてことをしてしまったんだ。お坊さんの友だちをぶっ殺してしまうなんて。やっちまったなあ。
それで食ってしまったシカの皮をキレイにはぎとり、ついでに角もきりとって、空也のもとにやってきた。定盛はその皮と角をさしだすと、空也にむかってこういった。スミマセンでした、オレ、出家しますと。それをきいて、空也は感動してしまう。
おお、すげえ。シカが人間を得度させたぞ。オレがいくら仏のおしえを説いても、人間にはぜんぜんつたわらなかったのに、それをシカがやってのけたのだ、命を賭けてやってのけたのだと。
 これで空也もすくわれる。そして、あらためて決意したのだ。オレも死を賭して、すべてをなげ捨てて、衆生をすくうのだと。地位も名誉も財産も、人間であることさえも捨ててしまえ。
そうやって、自分の身なんてどうなってもいいから、ひとになにかしてあげたいとおもうことが慈悲なんだ。というか、そういう無償のこころをつたえましょうというのが、念仏じゃないか。捨ててこそ。
シカだ、シカになれ。オレもおまえもシカになれ。空也は定盛からもらったシカの皮を身にまとい、手には角をつけた杖をもって、京都の街なかにやってきた。フオオオ、フオオオオオオ!!! 
シカのように鳴きさけび、とびはねながら念仏をとなえた。全身で念仏を表現したのだ。気づけば、町じゅうの貧民が続々とあつまって、空也といっしょにおどってる。
 
ルイ先輩!!!

 
ルイ先輩は関係ないだろ。とまあ、こんな調子で一遍上人のことも描かれているのですが、一遍上人はお坊さんなのに余裕で厳島神社とか、お寺のみならず神社にもガンガン行ってきて踊り念仏しちゃう融通無碍さもまたすばら。廃仏毀釈クソ食らえ。中世はすげえやと改めて思う今日この頃です。終わり。
 
 
P.S.
この本は今年の6月に出たばかりですので、本屋さんに赴けば普通に新刊コーナーに置いてあります、すげえ! 流行に乗ってやったぜ!

BEASTARS(板垣巴留)にハマった(ネタバレ諸々あります)後半

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慕ちゃんヤベー

最新回の慕ちゃんの勇姿でございますが、さすが未来の世界記録保持者ですね。ついこないだまでこんな顔してたのになあ。

ここ最近の怒濤の展開で、なんだか慕ちゃんが遠くへ行ってしまったような気もしてしまいましたが、でも慕ちゃんは慕ちゃんだし! 世界王者になろうがいくつになろうが慕ちゃんはずっとこの頃のままで認識してしまうのが恐ろしいですね。


と、豪快にネタバレしたところで(前回の記事でも言った筈だ…賽ノ目手帖はネタバレ上等だと…)、続きであります。またも前振り休止状態で申し訳ない。月末で繁忙期だってことを忘れてましたよ。


ビースターズの感想かと思ったら球詠の感想やんけ、と相変わらずの表紙詐欺野郎の賽の目でございますが近頃、「海獣の子供」で検索される方がいらっしゃるなあと不思議だったのですが、なななんと、映画化されてたんですね、ビックリ! このタイミングで!?
 
それで7年前に書いた記事を読まれていただいたと思います。本当にごめんなさい。途中から「海獣の子供」(五十嵐大介)じゃなくて「透明人間の作り方」(増田英二)の感想になっちゃってます。なんじゃそりゃー!
 
と、書いた本人もビックリですが、そういうの好きなんですよね。途中から全っ然話が変わっちゃうの。なんでしょうかね。ビックリさせたいってのがあるかもしれません。
まあ、ぶっちゃけた話が、単に頭が悪いから整合性のある首尾結構の整った文章が書けないってだけなんですけどねー。
 
などとブロガーとして致命的な短所を暴露してる場合じゃないんですよ。ビースターズです、ビースターズ。端的に申しますと、
 
ビースターズめっちゃオモシレー!

ってことなんですよ。しかし、これがねー。もうアニメ化が決定してるし、なんかマンガ賞みたいなんをもらったみたいですし、今頃になって褒めるってのもどうなんですか? めちゃめちゃ恥ずかしくない? みんな知ってるってばよ!

漫画に対するアンテナが近年めっきり衰えてしまったツケが来ましたね。今後もこういう恥をどんどこずんどこかかなきゃならそうなので、今からでも慣れないとなー。
 
漫画とはいつの間にやら距離ができてしまい、あんなに好きだったチャンピオンともすっかり疎遠になってしまったのですが、最近またチャンピオンコミックを読んでみようって気になって「六道の悪女たち」(中村勇志)とか「魔入りました入間くん」(西修)など漫画喫茶で読んでみたんですよ、アニメ化とか関係ないんですよ、マジ卍!
 
両作品ともいかにもチャンピオン作品といった風情で、荒削りながらも燃え上がれ少年心!満載の熱い作品で一気に読み通してしまいました。さすがチャンピオン! 読ませてくれるぜ!と改めて感心したものですが、第三弾として読み始めた「ビースターズ」にはビビりました、いや面白すぎて。
 
正直、上記の3作品の中では一番読むのに消極的でした、なんでしょうかオシャレくさくって
そこはかとなーく表紙からサブカルも分かってるんだぜ的なリア充の匂いが感じられ、てやんでえ!って反発する気持ちがあったのですが、いざ読んでみるとなんのことはない、どこに出しても恥ずかしくないチャンピオン丸出しの熱い漫画でした、なーんだ。俺の嗅覚も衰えたもんだぜ~。
 
今回は、とにかく恥ずかしいので、散々語られてるであろうチェリートン学園編のことは避け、主人公が学校を退学した後のレゴシフリーター編について少しく感想を述べたいと思います。あ、「~~編」というのは今でっち上げました。
 
そもそも、主人公が学校辞めるって凄いですよね。レゴシが12巻で「学校やめよう」って言い出した時は驚愕しましたよ。思わず単行本買っちゃいますよそりゃあ。
 
少年漫画で「学校」っていうのはいわば「社会」そのもので、そこからドロップアウトしちゃうんだー。作者的にも2年以上学園モノをやっておいていきなり退学するって、相当な路線変更だったと思います。
 
でもそれだけのことをレゴシはしたのであって、その決断は正しいと思います。バキだってレゴシに負けないくらい重い過去を背負ってんだから、あの時点で学校辞めたって良かったんだよなー。あのシーンはマジ泣きしました。
 
と、唐突にバキネタ振ってすんませんした。それで12巻から学校を辞めたレゴシの自分探しが始まるのですが、これが滅法面白くてねー。おんぼろアパートで胡散臭い住人たちとなんだかんだしていく感じが、なんかこう昭和の香りがするんですよ。
高橋留美子も影響を受けたという「喜劇新思想体系」(山上たつひこ)を彷彿させます。それはどうかな! 普通にめぞん一刻でいいじゃないかな。
 
お祖父ちゃんのゴーシャとの話も良かったです。特にここら辺の下りはねえ、本当にしんみりしちゃいますよ。いつも笑顔でいること、これ以上の子育てはないんですよ。あんまりオジサンを泣かせんなよー。
 
あとですね、レストランでレゴシとゴーシャがチンピラに絡まれるんですけど、これってちょっとジョジョに似てない?  レゴシが女装してルイ先輩に接近した時も「ジョセフやん」って思ってしまったのですが、なんか妙にジョジョを思い出してしまいます。レゴシはジョセフよりジョナサン寄りの性格ですが。
 
まあなんかしょうもないことばかり書いてますが、新井素子の「絶句」とか、半村良の「妖星伝」とか、宮沢賢治の「ビジテリアン大祭」とか、ちょっと傾向が異なるけど小松左京の「人類裁判」とか十代の頃に一度はぶち当たるであろう問題を、この作品を通じて今の子も向き合っていくのだろうなあと思うと感慨深いものがあります。
 
ジャングル大帝のレオはなにを食べてたの?」という、昔からの難問に果敢に挑戦するこの作品を心から応援したいと思います。終わり。

BEASTARS(板垣巴留)にハマった(ネタバレ諸々あります)前半

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時は来た…それだけだ。

とか、スカしてる場合じゃないっすよ。とうとう「なんでいつまで経ってもアニメ化されないんじゃろー?」と一部で不思議がられていた「球詠」(マウンテンプクイチ)がアニメ化されますよ。これで知名度アップ! このブログで話題にしても話が通じるって寸法でやんすよ、めでたい!

 
前回の記事は去年の8月に書いたんですが(バチバチ…)、アニメ化される前に出会えて本当に良かったです。流行につられて読むとか、そういうの凄くイヤなんす。これは譲れない! 「ダイヤのA」もアニメ化の情報が流れる前からちゃんと読んでたんですよ、本当なんだから!
 

そういえば前回の記事で「来年の1月には5巻が出るようですので」とか書いちゃいましたが、実際に発売されたのは3月です、テキトーなこと言ってすみません。1月に出ると思い込んでたので、なんで出ないんだー!って思ってたらいつの間にか5巻が発売されてて4月くらいになって購入したんですが、大体の店舗特典は配布終了してましたよ、ふはは! べ、別に悔しくなんかないんだから!

 

などとツンデレごっこしてないで、5巻では主人公が敵チーム(梁幽館)の4番打者を2打席連続で敬遠するなど、強豪相手に姑息なやり方で健闘しているのですが(賽ノ目手帖はネタバレ上等です!)、回を追うごとに地力の差がじわじわと現れてきて、勝負あったかな…と、読者にちょっと思わせたところで主将岡田さんのスリーベース

 

うおおお勝負はこっからー!と盛り上がったところで5巻は終了。ああん、もっと読ませて~! ちなみに岡田さんは前の打席ではゲッツー食らってました。岡田さん!さらにちなみに賽の目は岡田さんがかなり好きです。


ダイヤのAみたいに週刊誌連載なら続きがサクサク読めるんですけどねー。そこはまあドンマイドンマイ。ヒストリエだのドリフターズだの、続き待ってる作品なんぞ山のようにあるからのう。それが一つ増えただけのこと!

 

ということで、アニメ化の続報が楽しみな今日この頃ですが、はい、ここまでが前振りです。もうちょっと簡単に済まそうと思ってたんですがつい長くなっちゃって…うん、いつも通り!


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べ、別にアニメ化されるからって読んだ訳じゃないんだから!

お前、その言い訳をしたかっただけだろうがー!



Love Is Bigger Than Anything In Its Way(後半)

勿論、前回までの話は前振りだったワケですよ

賽ノ目手帖恒例の前振りだけで力尽きて記事が終わるパターンでヤンスね! そんなパターン捨ててしまえ。
 
ということで、以前も記事にしたこのある曲なのですが、ライヴ音源でこの曲を聴いて非常に好きになりました。上のはベックヴァージョンですけどー。映像が適度にキモくていいですね。
 
で、改めて「LOVEっていうのは一体なんなんだろう?」とまた少しく考え込んでしまったのですよ。

ボノさんにとってのラブというのは恐らく、いや絶対「神の愛」だと思います。正確には「神は愛」ということでしょうか。God is Love!

 

キリスト教というのはワタシにはいまだ遠い存在であるので、ここは同じ日本人の内村鑑三センセイの言葉を拝聴してみませう。

 

戦争が始まっても何でもない、神は愛である。戦争は歇(や)んでも何でもない、神は愛である。国は輿きても何でもない、神は愛である。国は亡んでも何でもない、神は愛である。しかり、よし全宇宙は消え失せても何でもない、神は愛である。純信仰の立場より見て歴史と科学とは何でもない、神は愛である。
内村鑑三所感集「何でもない」

社会人的な立場から見て、おいおいとツッコみたくなる気持ちもありますが、まずは語勢をもってなにを言わんとしているのかと鑑みてみますに、なによりも最初に慮るべき事柄は「神は愛である」ということで、戦争や国家や歴史や科学は二の次三の次ということでありましょう。


すべての前提である「愛」というものを、もう少し卑近な言葉で言い換えるとするならそれは「肯定する力」とでも言いましょうか。この力を前提としない限りはなにをもっても無、「何でもない」ということではないかと。
 
宮沢賢治も惚れ込んだ常不軽菩薩というボサツサマは、決して他人を軽んじないという方で、こちらのサイトからまんま引用させていただきますと、
 
法華経』に登場する菩薩の名。彼は人をみると「私はあなた方を尊敬して決して軽くみることはしない。あなた方はみな修行して仏陀となる人々だから」といい,人々にはずかしめられ打たれると,その場を逃げ,離れた場所から再び同じ言葉を繰返したという。そこでこの名がある。
と、非常に感動的なおこないをなさるボサツ様なんですね。あなた方を軽んじないということは肯定するということ、つまり愛ですね。
キリスト教的な愛だとちょっとボクは分からないんですけど、こういう菩薩的な愛なら分かるような気がしてくるぞい。
 
要するに、ワタシにはどうにも難しいボノさんの説く愛を、いかに自分が受け入れられるかということに四苦八苦している次第なのですが(笑)、近頃読んだ本の影響で(「王道と革命の間」(野口武彦)です)、「陽明学致良知っていうのはボノさんの言う愛に近いんじゃないかなあ」というのは今現在のワタシの妄想です(笑)
 
かなりいい加減が理解なもとに書いてるということを是非頭に入れていただきたいですが、「知行合一」にしても「事上磨錬」にしても陽明学のものの考え方ってボノさん好みじゃないかなあって、少しく覚えるんですよね。違う!って言ってもらっても一向に構いません(笑)

良知を致すとは愛することだ、という風に考えてみるのは無謀の極みですが、そう考えた方が、ワタシには分かりやすいです(笑)。陽明学の影響を受けた人たち、大塩平八郎とか吉田松陰とか西郷隆盛とか、みんな愛の人なんですよ。ホンマかいな。


樊遅仁  樊遅が仁について尋ねた
子曰人  孔子は人を愛することだと答えた
顔淵篇  
 
って孔子サマも仰ってますし!
なんか最近、ボノさんの言説を東洋的と言いますか、あえて言うと日本人的に解釈するのが面白くてしょうがないんですが、多分面白いのは自分だけなのが痛し痒し。
ボノさんからすればただ単にはた迷惑な話なのですが、一ファンの妄言ということでカンベンしていただきたいです。
 
余は仏教信者ではない、しかし仏教を援くることを好む。余はユニテリヤンではない、しかしユニテリアン教を援くることを好む。余は教会信者ではない、しかし教会を援くることを好む。余はクリスチャンである。ゆえにすべての人をすべての場合に援くることを好む。余のこの心をわからない者はキリストの心を分からない者であると思う。余は仏教信者でないゆえに仏教に反対すべき者、無教会信者であるゆえに教会に反対すべき者であると思う者は、いまだキリスト者とはどんな者であるかを知らない者である。
内村鑑三所感集「キリスト者の心」
という内村鑑三の言葉にボノさんは「そうだね」と言ってくれることを妄想してやまない今日この頃です。終わり。
 
 
 
 
おまけ
弾き語りヴァージョンもいいですね。
 
 
 
サビのところをエッジが歌うのがイイ! 日本でもこれでやってくれないかなあ。
そして曲の途中で当然のように客側に赴くボノさん。この人は本当にファンと交わりたいんだなあと。

Love Is Bigger Than Anything In Its Way(前半)

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そのネタは前もやっただろうがあ!

イノセンスiTunesに上手くダウンロードできなかった時でしたっけ。あん時もアセりましたが、今回はクレジットカードでの決済手続きが上手くいかなくって、アセるというか絶望の極みでしたよ、そう慕ちゃんのようにー。慕ちゃん絶望しすぎぃ!
 
それはさておき、もう1週間経ってしまいましたが、入金手続きも無事完了しチケットを確保できました。あとは待つだけ! 怖いのはケガ病気その他! 安全運転でいきますよー。
 
そして唐突に話題は変わりますが、こちらの記事で「咲-Saki-」(小林立)が、奇しくもU2が来日を果たした2006年に連載が始まったことを書いたんですが、マガジンで連載してる「ダイヤのA」(寺嶋裕二)も2006年から連載スタートしたそうなんですよ、これもビックリ。
 
ダイヤのAは、だいぶ以前の話になってしまうのですが、コメント欄でなまさんにこの作品を薦められたことがあり、読もう読もうと思いつつ、結局本格的に読むようになったのはact2になってからでした。本当に今頃ですよ、なまさんスミマセン!
 

14巻での沢村のあのセリフ、「何度躓いても、何度期待を裏切っても、何度だってやり返せる、やり返せるんだ」にはシビれました。うおおお。 

15巻の作者のコメントには
 
高校の時、部活サボって行ったあの人たちのライブ。
今もあの時と変わらずパワフルなライブを見せてくれる。
これって奇跡に近い事だと思う。
あの人達が今を更新してくれるから、自分も過去にとらわれずに済む。
今年のライブも最高でした。
 
と書かれてまして、こんなに共感できる作者コメントを読んだのは初めてかもしれません(笑)。ちなみに沢村は納豆がニガテなようで、この点に関しても非常に共感できますね(笑)。あ、現在はワタクシ克服しました。
 
ということで2006年に連載が始まり、2019年にはとうとう沢村がエースになり、13年かけてようやくタイトルと合致するようになった訳ですが、2019年という年は年号が変わるわU2は来るわ、ラグビーのワールドカップが日本で開催されるわ、咲-Saki-は決勝戦が始まるわ、沢村がエースになるわで、なんというか忘れられない年になりそうです。
 
 

決戦は火曜日

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と、やきもきされていた日本のU2ファンの皆様、いかがお過ごしでしょうか。

新しいパンツを履いたばかりの正月元旦の朝のよーに爽やかな気分(by東方仗助)ではないでしょうか。すっきり!
 
10年以内にまた日本に来る!というラリーの言葉を信じて、2016年には日本に来てくれるよねとばかりにノリノリでU2.comでTシャツを購入して「これ着てライヴ行くんだ~♪」とスタンバってたものですが待てど暮らせど…いやあヘコむわあ。
 
もしかしたら、もう日本でライヴはやらないのかなあとほとんど絶望してましたが、大逆転ホームランでした。
 
んでこの前、U2.comでライヴ音源をダウンロードしておったのですが、最近作でなにが足りなかったのか実によく体感できました。
 
ギターが足りない
 
これに尽きる尽きる!
勿論随所にギターが散りばめられてはいるのですが、どうにも装飾的と言いますか控え目なんですよねえ。さすがにツアーを経て送り出されたエクスペリエンスの方はイノセンスよりギターが鳴っていたのですが。
 
それが流行りというものなのでしょうが、やはり古臭いと言われようがなんだろうが指から煙が出るくらいエッジに全曲ギターをかき鳴らして欲しいんですよ。
 
その点、ライヴですと、どうやったってギターのサウンドがメインになりますからギターが響く響く。なんだいつものU2じゃないかと安心しました。
 
POPMARTツアーの時は、ライヴ音源を死ぬ程聴いてしまったため、実際のライヴではその音通りのサウンドで今いちノレなかった反省から、ライヴ音源を聴くのを控えてたのですが、それが仇になってたんだなあと。
 
多分、イノセンスの楽曲もライヴでの演奏ならワイルドなものになってて「いつものU2だー!」ってことになってたんでしょうねえ。Song For Someoneは、ワイルドじゃなくても構わないのでライヴで聴きたいなあ。

まあ今回の日本公演は新作のツアーじゃなくて、ヨシュアトゥリーツアーなんですが!

 
私は一向に構わんッッ。いつだったかの記事で悪口めいたこと書いちゃったけど、忘れてください! どうもすみませんでしたー!!
あの頃はちょっとカリカリしてて…本当にごめんなさいです。
 

その記事には、咲-Saki-U2って似てるなあとかなんとか調子こいて書いてしまってますが改めて思い返すと、咲-Saki-って連載が始まったのは2006年なんですよ。そう、Vertigoツアー日本公演の年ですね。なにやら因縁めいたものを感じてしまうわけですよ。

 
2006年の段階では無論ワタシは咲-Saki-のことはなんにも知らなかったのですが、その当時読んでた漫画と言いますと、このコラは河内和泉さんの「機工魔術士」で、こちらは林家志弦さんの「ストロベリーシェイク」ですね。
 

 思えば、機工魔術士に惑溺することによりスクウェア・エニックスの文化圏に飛び込むことが出来、林家志弦さんの漫画から、百合文化を慣れ親しむきっかけが得られました。着々と外堀が埋められていったと申しましょうか、咲-Saki-へたどりつくのが必然だったなあと思ったり思わなかったり。

 

などとしょうもない感慨にふけったりしてしまいましたが、ヨシュアトゥリーツアーではヨシュア以外ではどんな曲を演奏するんじゃろっとちょいとYoutubeで調べてたんですけど、A Sort Of Homecomingも演奏してたみたいですね、ふーん…

 

 

 
…昨日と同じネタですみません。
 
ええと今から宣言します。日本公演でこの曲が演奏されたら俺泣きます。ダメだー。
思い出の曲と言いますかなんと言いましょうか。本当に心の底から感動した曲なんです。これを目の前で演奏されたらどうなっちゃうの!?
 
こういうクラシカルな曲を2019年の今、演奏するかもしれないっていうのは、それはもうヨシュアトゥリーツアーだからこそで、悪口言って本当にすみません。生きてて良かった…。
 
しかし、それを見るためにはまずチケットを入手せねば!
こちらのサイトで大変分かりやすくチケット購入方法が説明されていて、とてもとても助かりました。13年前にどうやって手続きを済ませたかなんてもう覚えてないよー。
 
U2.com会員のチケット優先販売は6月4日(火)の正午から。思いっ切り勤務日ですが、早めにお昼休憩とって予約するでーめっちゃ予約するでー。
 
U2のライヴが観られるならどこだっていいやって思ってたのですが、いざ予約する段になると少しでもいいところで観たい!と180度意見が変わってしまうのはなぜ? これが恋なの?
 
どこでもいいけど少しでもいいところで観たいという訳の分からない気持ちで火曜日を迎えますよ。終わり
 
 
P.S.
あ、最初の画像は「シノハユ」(五十嵐あぐり)の主人公慕ちゃんです。もちろんコラです。ちょっと前までトビ寸前まで追い込まれて、慕ちゃんの絶望顔にゾクゾクしたもんですよ、ヘンタイか!
 
そんな主人公が大ピンチのシノハユ最新刊(11巻)が現在絶賛発売中です。読んでー。

移行先は決まりましたか?

ワタシは移行完了しました。

と言っても3月にサービス終了したジオシティーズの記事をこっちに移行しただけなんですけれどもれども! ↓
  
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ジオシティーズからヤフーブログへ移行して、さらに別ブログへ移行するとか二度手間かける俺カッコイイ。既存の記事がすっかり後ろに行っちゃったよ。
 
移行先としてワタシは「はてなブログ」を予定してるのですが、移行開始できる7月まではこのブログでボチボチ更新していこうかなと。
 
移行する前に2度にわたって挫折した「江戸の兵学思想」の感想はなんとかやり遂げたいとは思ってるのですが、どうにも難渋しておりますです。
 
原因はいたって簡でして、吉田松陰という兵学者が問題なのです。「王道と革命の間」でもキーとなってた人ですが、この人を語るのがひどく難しい。

2年くらい前から橋川文三さんの作品を読むようになり、これを奇貨として長らく避けていた「戦前の日本」と向かい合おうと決意していたのですが…難しい。難しいと言いますか、率直に言って怖いです(笑)

そういう一連の困難さは吉田松陰という人が源泉になってる…と直感したのですが、うかつに切り込もうものならこっちが斬られてしまいそうで剣呑であります。

単純に切り口を間違えちゃったかな~とか反省していますので、ここは一旦退却して別の切り口から攻めていこうと戦術を練り直してます。

かように吉田松陰という人となんか近づけそうかなあと思ってしまったのは、河上徹太郎の「吉田松陰という本の中の一節に惹かれたという、その一点のみでした。無謀じゃ。

それにしても今日では、君臣の義などというと、天皇制が明治時代に名目論的に擬制化され、それが戦争で絶対的強権を背負い、更に戦後その全面的な否定を見たことは、今日まだ生々しい思想界の渦巻きをなしていて、それにこだわりなしに発言できないのが面倒である。ただ確かなことは、黙霖も松陰も、こんな天皇論議と関係ないことである。彼等は、何ものかに強要されたのではなく、天皇を自分の初心で発見しているのである。この一点で二人は純潔に結びつき合っている。だから御望みなら天皇の代りに「神」とでも「デモクラシー」とでも「自由」とでも「民族の心」とでも、置き換えて一向構わない。それで彼等の言い分も私の趣旨も、論理的にはそのまま通じる。
(僧黙霖との出会い(一)より)
天皇をデモクラシーと置き換えて一向構わないって、また太いことを言う。これにはシビれました。そういうことなら分かる、分かるぞ俺!
 
吉田松陰の時代には、いわゆる天皇制などというものは存在しなかった訳で、そういう初心の中の天皇像というものが自分にもつかめたらなあと、まあそこで難渋してるんですけどね。面倒ですなあ。
 
平成から令和の時代になり、自分もそれなりに色々と思うことはあるのですが、まずは「昭和」をなんとかしたいって思ってるんですが、これがねえ。
 
本当に今更ですが「歴史」というものの困難さを実感しております。
つまり平成を知るには昭和を知らなければならないし、昭和を知るには大正を知らなければならない。そして大正を知るには明治を知らなければならない。
キリがないのであります。
 
歴史を愛するというのはその国を丸ごと全部愛さないといけない。それはやっぱり大器量というものが必要であって、自分は匹夫であることを今しみじみと感じる次第であります。
 
歴史の面白さと困難さと愛しさを同時に味わう賽の目でした。終わり