「死してなお踊れ 一遍上人伝」(栗原康)が面白かった
一遍上人って言いますと、踊り念仏の人で、人々を救うために踊って踊って踊りまくったというイメージで、なんというかロックですよね。
しかし、このシカの角ってなんなんだろう。そうおもってると、かなりくわしく解説がかいてあった。みんなで食いいるようにむさぼりよんだ。こうかいてある。
空也は九〇三年うまれ。醍醐天皇の第二皇子としてうまれ、出家して、念仏をお寺のなかや貴族のためだけでなく、衆生にひろめるために全国をわたりあるいた。金持ちだけじゃない、貧乏人もみんなすくわれないとダメなんだと。
とちゅうから、京都の街なかに的をしぼって、念仏をひろめはじめた。もちろん念仏をとなえたって、さいしょはいまいち衆生につたわらない。意味がわからないのだから。無視されたか、あるいは、あたまのおかしい乞食坊主あつかいだったろう、トホホ。
そんな空也が中休みのために、鞍馬山にひきこもっていたときのことだ。野山にでて、念仏をとなえていると、シカがよってきて気持ちよさそうに念仏をきいてくれた。
おお、オレのことをわかってくれるのか。人間すらわかってくれないのに。うれしくなって、ひたすらナムナムと念仏をとなえた。すると、シカもシカで、フオオオ、フオオオオオオ!!! と、全力で鳴き声をあげてくれる。
いいよ、いいよ、山河草木、ふく風たつ波の音さえも、なむあみだぶつともうしけり。畜生の鳴き声だって、念仏だ。空也は毎日、シカの鳴き声をきくのが楽しみになった。なんかさとった気がする。
でも、ある日のことだ。シカがばったりとこなくなる。夕方になっても、夜になっても、鳴き声さえきこえてこない。どうしたことだろう。
村人にきいてみると、衝撃の事実がわかった。猟師の定盛というやつが、弓矢で射殺して食ってしまったというのである。ああっ、ああっ。空也はショックで嘆きかなしんだ。元気がなくて、もう死にそうだ。
すると、そのはなしをきいた定盛もびっくりしてしまう。ガーン。オレはなんてことをしてしまったんだ。お坊さんの友だちをぶっ殺してしまうなんて。やっちまったなあ。
それで食ってしまったシカの皮をキレイにはぎとり、ついでに角もきりとって、空也のもとにやってきた。定盛はその皮と角をさしだすと、空也にむかってこういった。スミマセンでした、オレ、出家しますと。それをきいて、空也は感動してしまう。
おお、すげえ。シカが人間を得度させたぞ。オレがいくら仏のおしえを説いても、人間にはぜんぜんつたわらなかったのに、それをシカがやってのけたのだ、命を賭けてやってのけたのだと。
これで空也もすくわれる。そして、あらためて決意したのだ。オレも死を賭して、すべてをなげ捨てて、衆生をすくうのだと。地位も名誉も財産も、人間であることさえも捨ててしまえ。
そうやって、自分の身なんてどうなってもいいから、ひとになにかしてあげたいとおもうことが慈悲なんだ。というか、そういう無償のこころをつたえましょうというのが、念仏じゃないか。捨ててこそ。
シカだ、シカになれ。オレもおまえもシカになれ。空也は定盛からもらったシカの皮を身にまとい、手には角をつけた杖をもって、京都の街なかにやってきた。フオオオ、フオオオオオオ!!!
シカのように鳴きさけび、とびはねながら念仏をとなえた。全身で念仏を表現したのだ。気づけば、町じゅうの貧民が続々とあつまって、空也といっしょにおどってる。
BEASTARS(板垣巴留)にハマった(ネタバレ諸々あります)後半
慕ちゃんヤベー
最新回の慕ちゃんの勇姿でございますが、さすが未来の世界記録保持者ですね。ついこないだまでこんな顔してたのになあ。
ここ最近の怒濤の展開で、なんだか慕ちゃんが遠くへ行ってしまったような気もしてしまいましたが、でも慕ちゃんは慕ちゃんだし! 世界王者になろうがいくつになろうが慕ちゃんはずっとこの頃のままで認識してしまうのが恐ろしいですね。
と、豪快にネタバレしたところで(前回の記事でも言った筈だ…賽ノ目手帖はネタバレ上等だと…)、続きであります。またも前振り休止状態で申し訳ない。月末で繁忙期だってことを忘れてましたよ。
ってことなんですよ。しかし、これがねー。もうアニメ化が決定してるし、なんかマンガ賞みたいなんをもらったみたいですし、今頃になって褒めるってのもどうなんですか? めちゃめちゃ恥ずかしくない? みんな知ってるってばよ!
BEASTARS(板垣巴留)にハマった(ネタバレ諸々あります)前半
時は来た…それだけだ。
とか、スカしてる場合じゃないっすよ。とうとう「なんでいつまで経ってもアニメ化されないんじゃろー?」と一部で不思議がられていた「球詠」(マウンテンプクイチ)がアニメ化されますよ。これで知名度アップ! このブログで話題にしても話が通じるって寸法でやんすよ、めでたい!
そういえば前回の記事で「来年の1月には5巻が出るようですので」とか書いちゃいましたが、実際に発売されたのは3月です、テキトーなこと言ってすみません。1月に出ると思い込んでたので、なんで出ないんだー!って思ってたらいつの間にか5巻が発売されてて4月くらいになって購入したんですが、大体の店舗特典は配布終了してましたよ、ふはは! べ、別に悔しくなんかないんだから!
などとツンデレごっこしてないで、5巻では主人公が敵チーム(梁幽館)の4番打者を2打席連続で敬遠するなど、強豪相手に姑息なやり方で健闘しているのですが(賽ノ目手帖はネタバレ上等です!)、回を追うごとに地力の差がじわじわと現れてきて、勝負あったかな…と、読者にちょっと思わせたところで主将岡田さんのスリーベース!
うおおお勝負はこっからー!と盛り上がったところで5巻は終了。ああん、もっと読ませて~! ちなみに岡田さんは前の打席ではゲッツー食らってました。岡田さん!さらにちなみに賽の目は岡田さんがかなり好きです。
ダイヤのAみたいに週刊誌連載なら続きがサクサク読めるんですけどねー。そこはまあドンマイドンマイ。ヒストリエだのドリフターズだの、続き待ってる作品なんぞ山のようにあるからのう。それが一つ増えただけのこと!
ということで、アニメ化の続報が楽しみな今日この頃ですが、はい、ここまでが前振りです。もうちょっと簡単に済まそうと思ってたんですがつい長くなっちゃって…うん、いつも通り!
お前、その言い訳をしたかっただけだろうがー!
Love Is Bigger Than Anything In Its Way(後半)
勿論、前回までの話は前振りだったワケですよ
ボノさんにとってのラブというのは恐らく、いや絶対「神の愛」だと思います。正確には「神は愛」ということでしょうか。God is Love!
キリスト教というのはワタシにはいまだ遠い存在であるので、ここは同じ日本人の内村鑑三センセイの言葉を拝聴してみませう。
戦争が始まっても何でもない、神は愛である。戦争は歇(や)んでも何でもない、神は愛である。国は輿きても何でもない、神は愛である。国は亡んでも何でもない、神は愛である。しかり、よし全宇宙は消え失せても何でもない、神は愛である。純信仰の立場より見て歴史と科学とは何でもない、神は愛である。
内村鑑三所感集「何でもない」
社会人的な立場から見て、おいおいとツッコみたくなる気持ちもありますが、まずは語勢をもってなにを言わんとしているのかと鑑みてみますに、なによりも最初に慮るべき事柄は「神は愛である」ということで、戦争や国家や歴史や科学は二の次三の次ということでありましょう。
『法華経』に登場する菩薩の名。彼は人をみると「私はあなた方を尊敬して決して軽くみることはしない。あなた方はみな修行して仏陀となる人々だから」といい,人々にはずかしめられ打たれると,その場を逃げ,離れた場所から再び同じ言葉を繰返したという。そこでこの名がある。
良知を致すとは愛することだ、という風に考えてみるのは無謀の極みですが、そう考えた方が、ワタシには分かりやすいです(笑)。陽明学の影響を受けた人たち、大塩平八郎とか吉田松陰とか西郷隆盛とか、みんな愛の人なんですよ。ホンマかいな。
樊遅問仁 樊遅が仁について尋ねた
子曰愛人 孔子は人を愛することだと答えた
顔淵篇
余は仏教信者ではない、しかし仏教を援くることを好む。余はユニテリヤンではない、しかしユニテリアン教を援くることを好む。余は教会信者ではない、しかし教会を援くることを好む。余はクリスチャンである。ゆえにすべての人をすべての場合に援くることを好む。余のこの心をわからない者はキリストの心を分からない者であると思う。余は仏教信者でないゆえに仏教に反対すべき者、無教会信者であるゆえに教会に反対すべき者であると思う者は、いまだキリスト者とはどんな者であるかを知らない者である。
おまけ
Love Is Bigger Than Anything In Its Way(前半)
そのネタは前もやっただろうがあ!
14巻での沢村のあのセリフ、「何度躓いても、何度期待を裏切っても、何度だってやり返せる、やり返せるんだ」にはシビれました。うおおお。
高校の時、部活サボって行ったあの人たちのライブ。
今もあの時と変わらずパワフルなライブを見せてくれる。
これって奇跡に近い事だと思う。
あの人達が今を更新してくれるから、自分も過去にとらわれずに済む。
今年のライブも最高でした。
決戦は火曜日
と、やきもきされていた日本のU2ファンの皆様、いかがお過ごしでしょうか。
まあ今回の日本公演は新作のツアーじゃなくて、ヨシュアトゥリーツアーなんですが!
その記事には、咲-Saki-とU2って似てるなあとかなんとか調子こいて書いてしまってますが改めて思い返すと、咲-Saki-って連載が始まったのは2006年なんですよ。そう、Vertigoツアー日本公演の年ですね。なにやら因縁めいたものを感じてしまうわけですよ。
思えば、機工魔術士に惑溺することによりスクウェア・エニックスの文化圏に飛び込むことが出来、林家志弦さんの漫画から、百合文化を慣れ親しむきっかけが得られました。着々と外堀が埋められていったと申しましょうか、咲-Saki-へたどりつくのが必然だったなあと思ったり思わなかったり。
などとしょうもない感慨にふけったりしてしまいましたが、ヨシュアトゥリーツアーではヨシュア以外ではどんな曲を演奏するんじゃろっとちょいとYoutubeで調べてたんですけど、A Sort Of Homecomingも演奏してたみたいですね、ふーん…
移行先は決まりましたか?
ワタシは移行完了しました。
それにしても今日では、君臣の義などというと、天皇制が明治時代に名目論的に擬制化され、それが戦争で絶対的強権を背負い、更に戦後その全面的な否定を見たことは、今日まだ生々しい思想界の渦巻きをなしていて、それにこだわりなしに発言できないのが面倒である。ただ確かなことは、黙霖も松陰も、こんな天皇制論議と関係ないことである。彼等は、何ものかに強要されたのではなく、天皇を自分の初心で発見しているのである。この一点で二人は純潔に結びつき合っている。だから御望みなら天皇の代りに「神」とでも「デモクラシー」とでも「自由」とでも「民族の心」とでも、置き換えて一向構わない。それで彼等の言い分も私の趣旨も、論理的にはそのまま通じる。
(僧黙霖との出会い(一)より)