賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

大東亜論(小林よしのり)

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小林よしのりの漫画は主にゴーマニズム関連の作品しか読んでないのだけれども、自分の中では小林秀雄小林よしのり、そして小林立三大小林の一角を担ってます(笑)
 
頭山満を中心に明治政府と敵対した人たちを描いていくようですが、とにかく滅法面白かったです。歴史漫画として普通に面白いから困る。

 
『大東亜論』は最初は「論」として始まったが、あまりに魅力的な人物が多いので、徐々に「物語」に移行することになった。(P43のコメント)
 
かつて小林よしのりは「ワシを物語に返してくれ」みたいなことを言ってた記憶がありますが、その彼がこうして歴史という大きな物語を描くに至ったのだなあと思うと感慨深いものがあります。
 
さてその大東亜論ですが一番印象に残ったのが、武部小四郎の最期のシーンでして、これは夢野久作の『近世快人伝にも載っているので一部引用します(青空文庫でも読めます)。
 
 そのうちに四五人の人影が固まって向うの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思うと、その中でも武部先生らしい一人がピッタリと立佇まって四方を見まわした。少年連のいる獄舎の位置を心探しにしている様子であったが、忽ち雄獅子の吼えるような颯爽たる声で、天も響けと絶叫した。
「行くぞオォ――オオオ――」
 健児社の健児十六名。思わず獄舎の床に平伏して顔を上げ得なかった。オイオイ声を立てて泣出した者も在ったという。
「あれが先生の声の聞き納めじゃったが、今でも骨の髄まで泌み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日まで自分の臓腑の腐り止めになっている。貧乏というものは辛労いもので、妻子が飢え死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、腸がグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞオ』という気もちになる。貧乏が愉快になって来る。先生……先生と思うてなあ……」
これがマンガだとどのように表現されるのか、それは実際に読んでいただくとして、大変な迫力でビビりました。いやあマンガって本当に良いですね。
 
とりあえず一読して感じたことは、明治の頃の政治運動はまた随分と荒っぽいもんだったんだなあということ。明治維新でぐれんっと世の中をひっくり返したもんですから、それが間違っているのなら、またぐれんっとひっくり返して何が悪い、と言わんばかりにみんなもう血気にはやりすぎやねん。
 
 
 (宮崎)八郎の親友であり、彼の七本槍の一人といわれた野満俊太郎は、八郎らとともに東京で共同生活をしている時、来客があれば黙って辻斬りに出かけ、それで得た金を酒や肉にかえて客をもてなしたと伝えられる。またこの男は広沢参議暗殺の被疑者として拘引されると、「予は之に与せず、しかれども予は之に与らざるを遺憾とす、予は独り広沢のみならず当路の参議、省卿の属ことごとく屠つて、彼が肉をくらわずんばやまざるの決心覚悟あり」と放言し、ついに石責めの拷問にあうと、「大声疾呼法官を侮辱し、絶息するに及び暴言始めて止む。彼が絶息するや拷具を排し医師薬を与ふ。彼忽然眼を開き、猛然として起ち、手に唾き吐き、鮮血淋漓たる腿を打ち、相撲のシカブミを為す」といったふうであった。(渡辺京二『評伝宮崎滔天』p72)
 
 
渡辺京二の本からあの時代のエートスっていうんでしょうか、そういう雰囲気みたいなものを教えてもらったものですが、いやあなんとも荒々しい。
このような「狂」をどこまで自らの尺度で受け止められるかというのが今後の自分の課題だなあと思う次第。