賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

神の心・人の心

神の心
 人心荒み、道徳廃れて、人類の上に、永遠に闇がかぶさってしまったように思われる時代がある。現在が、ちょうどその時代だ。しかし、私は信ずる。この状態はそういつまでも続きはしない。いつか又、明るい世界になるであろうと。
 ほんとうに『正しい』というものは、神の心より外にはない。神の心こそ、世界に於てただ一つの『正しい』ものだ。人間にも、神の心はある。その心が人間のなかに輝き出す時、人はさながら神となり、地上はこのままに一つの楽園となるであろうが、なかなかそうはゆかないのは、いろいろの我慾や煩悩が、その神の心を曇らしているからである。
 しかし、この神の心が全然、人間のなかから消えてしまうものでない以上、人間は、そう限りなく堕落してゆくものではない。我慾、煩悩にのみ囚われていると、他を傷つけるばかりでなく、自分もまた傷つける。結局自他共によい事がなくなるので、やがて『これじゃあいけない』と気がつき、正しい道に立ち直ることになる。何人が教えなくても、自然、そういう事になるのである。


苦しみを共に
 年を取って、食べ物に対する好みも次第に変わって来るにつれて、さすがの酒も、嫌いになってしまったのだが、煙草だけは、やはりどうしても止められなかった。
 が――こんなことを、公に云うのはおかしいか知れないが、最近、私は、ひそかに心に誓うところがあった。去年、昭和八年度の予算をつくる時、各省から、ずいぶんいろいろな予算を要求された。どれを見ても、それぞれ立派に理由があるので是非出してやりたいのであったが、しかし、この上公債を増加することも出来ず、したがって、その要求の全部を容れる事は出来ない。要求は道理至極と思いながら、我慢してもらうほかは無い。
 そこで、私は、他人様に辛抱してもらうには、まず、自分から辛抱してかからねばならぬと考えた。そうだ、自分の一ばん辛い辛抱をしてみようと、こう思い立って、私は断然、煙草をやめることにした。その辛さは、最初の時の比ではなかった。食慾も減り、気分もわるくなった。辛い、とても辛い。が、今日では大分慣れて、そう我慢できないようなことも無くなった。
 今では、他人様に辛抱してもらっている代わりの自分の辛抱を、どうやら貫くことが出来ると思って、喜んでいる。


魂のあらわれ
 私は、仏像が好きなので、かなり沢山の仏像が私のところに集まっている。中には、国宝にでもなるというようなものもある。
 私は、十歳ぐらいの時に、お寺へ奉公に行った事もあるが、私の仏像好きはその頃からはじまった。また、私の祖母が、大へんに観音さまを信仰していて、毎晩、一緒に寝る時に、観音経をよんできかせて呉れたりした事も、私の仏像恋しさの原因になっているだろう。
 同じ仏像といっても、時代によって、非常な差がある。天平時代から、鎌倉時代の初期ごろまでは、ほんとうに仏教を信じ、本当に仏さまを随喜渇仰している人間が作ったのでその頃の仏像は、むかえば自然に頭のさがる品と威とをそなえている。足利時代以後になると、技術の方は進んで来ても、作者に信仰が薄くなっているので、仰げば跪かずにはいられないような、魂の籠った作はなくなってきている。現今のは尚更の事だ。これは、勿論日本ばかりの現象ではない。外国でも宗教の盛んだった頃に描かれた宗教画だけが、敬虔さに満ちあふれ、見る人の襟を正さしめる。
 つまり、作者の心が、魂が、その作ったものの上にはっきりと現れるのである。これは仏像ばかりの問題ではない。人間のすることは皆そうだ。魂の籠った仕事でなければ駄目である。


まごころ
 私が、青年時代に最も感激したことが一つある。
 御維新の前、ペルリ来朝の直後に、堀織部正という外国係りの幕府の役人が、その時分の外務大臣である外国奉行の、安藤対馬守に建白書を送って切腹したという事実がある。その建白書を感激のあまり、私は写しとっておいた事があるが、その書き出しに、
『鳥のまさに死なんとするやその声かなし、人のまさに死なんとするやその云うことやよし、外国尹堀織部正、謹んで外国奉行安藤対馬守に白す』
とあった。私は、人の真心は、ここにあるのだ、ということをその時、深く感じだ。
 一身を賭して、思うところの真実を語る――こんな立派なことがあろうか。一身を賭し魂を籠めて、云ったりしたりした事は、その事の善悪にかかわらず、強く人を撃つものだ。


支那人を軽蔑するな
 満州国問題も、まずどうやら目鼻がついてきたようだが、大切なのはこれからだ。独立国として世界に乗り出させた満州国は、あくまでも独立国として対さねばならぬ。属国あつかいしたり、あるいは征服した国のように振舞ったりしたら、満州国の人心を得る事は出来ぬ。満州の人心を得なければ、満州を、わが国の藩屏たらしめることは出来ぬわけだ。
 わが国が、満州問題で起ったのは、決して慾得づくからのことではない。ひとえに、わが国家の存立のため、自衛のためである。
 一小島国日本が、三千年来のいわゆる金甌無欠のこの光栄ある国家を維持してゆくにはそれに対する脅威を除かねばならぬ。そのためには、国境に安全地帯を作ることが、是非必要なので、その最小限度の必要から、満州に兵を動かしたのである。決して、これを慾得づく、算盤づくに考えてはならぬ。そんな考えは、ますます世界の疑惑を深くする事になるであろうから、つとめて、それを捨てなけれなならぬ。
 日本人は、日清戦争以来、支那人を軽蔑する風がある。日本人が、上下ともに支那人を馬鹿にするという一般的な気風――これが間違いのもとなのだ。
 かつて、私が、上海の日本人の経営しているある商館へ行った時、その商館の大事なお華客(とくい)の、支那の紳士が訪れて来た。すると、受付の日本人のボーイが、
『チャンコロが来ました』
といって取り次いだ。私は、甚だ心外であった。いやしくも華客の紳士ではないか。それを受付のボーイが『チャンコロ』と呼ぶとは! また主人がそう呼ばせるとは!
 この日本人の軽蔑が、とりわけ所謂面子を重んじる支那人にとっては、まことに耐えられぬところなので、こんなことが排日の原因にもなり、ひいて、両国間の結んで解けぬ紛争の原因にもなっているのである。


日章旗に恥じず
 私が、壮年時代、わが国の海外発展のためにやったペルー銀山経営は、惨憺たる失敗に終わってしまった。それは、この事に関係したある一人の人の過失のためだったが、私などは、この失敗のために全くの収入の道も絶え、家も屋敷も失った上に、世間の人々からひどく誹謗される事になった。しかし、まだ三十六、七歳という頃だったので、仕事に対する興味も盛んで、そんな事には、めげなかった。そして、外国人相手の仕事だったので、日本人としての恥を残すまいとして、一生懸命に後始末をした。
 ペルーへ連れて行った鉱夫達は、何しろ明治二十二年頃の、まだ日秘条約なども結ばれず、どこにそんな国があるかという事すらも、はっきりしていなかったような秘露(ペルー)へ出かけるほどの者共だったから、いづれも命知らずの荒くれ者だった。中には、秋田あたりの鉱山で人殺しをやったようなのもまじっていた。しかし、
『外国へ来て、日の丸の旗を汚すようなことをするな』
という風に訓戒すると、ちゃんとそれを守っていた。国内にいては分からぬがちであるけれども、外国へゆくと、日本人のいいところがはっきりわかる。


地上楽園の夢
 今は、ひまがあると、都塵を葉山の別荘にさけて、おだやかな日には、うしろの山を散歩したりして、仕事の事を考えている。毎日毎日の疲労が、その夜その夜の眠りで恢復すると、今日もまだ働ける、と思っている。時には、何十万年か後か知らないけれども、いつかは必ず、人間がみな神様になって、人類全体が一つの国民になり、――つまりは、人種とか国家とかの区別などを考えないようになって、この地上が楽園となる日が来ることを、じっと想ってみることもある。
 私は、神様を信じている。私の神様というのは、日本の八百万の神々をはじめ、釈迦も孔子も、また耶蘇も、すべてを含んだ神様である。人間、自分より上のものがないと、どうも自惚れていけない。自惚れが出ては、人間もおしまいである。神様を忘れると、人間が破滅するばかりである。



高橋是清の「随想録」(本屋で見つけられなかったので図書館で借りて読んだ)に収録されている、「神の心・人の心」という短い随想を取り上げてみました(取り上げなかったものもあり)。
ああ、高橋是清という人は、こういう人なんだと、このエッセイを読んで思いました。満州問題への言及など、歴史的にも面白いです。
さて、図書館に行って返却してこよう。