賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

「二十世紀末の闇と光」より

 あるとき、私が病気をしたら、タタールの娘さんに蜂蜜のお菓子をつくらせて、それをもって見舞いに来てくれたんです。部屋に上がってもらったら、私の部屋を見回して、「おまえ、ずいぶん本を持っているな。この本、どうするんだ」「もちろん、これで勉強する」「火事になったらどうする?」「火事で全部焼けちゃったらお手上げで、自分はしばらく勉強できない」といったら、それこそ呵々大笑するんです。「なんという情けない。火事になったら勉強できないような学者なのか」と(笑)
 しばらくたってから、今度は「おまえ、旅行するときはどうして勉強するんだ」というから、あの頃、行李に入れてチッキというやつにして汽車で運んだでしょう。「必要な本を持っていって読むんだ」といったら、「おまえみたいなのは、本箱を背負って歩く、いわば人間のカタツムリだ。そんなものは学者じゃない。何かを本格的に勉強したいんなら、その学問の基礎テクストを全部頭に入れて、その上で自分の意見を縦横無尽に働かせるようでないと学者じゃない」というんですよね。われわれみたいに、ただ本を読むだけでやっとみたいなのは、学者でも何でもない。


図書館で借りてきた、井筒俊彦司馬遼太郎の対談集の内容が、大変面白かったので、返却して内容を忘れてしまう前にメモっとくです。学者でも何でもないから大丈夫!
この対談に出てきた、化け物のような学者さんの話が非常に印象的でした。なるほど、こういう人が学者になるのですな。



 ところで、その先生というのがまたタタール世界で随一の学者だったんですが、実におもしろい人でね、諸国漫遊というか、一所不住なんです。ご承知のようにイスラームにはそういう伝統がありまして、十三世紀のイブン・バットゥーダみたいに世界じゅう回って歩く。のちに、「何のための世界旅行なのですか?」と聞いてみましたら、「神の不思議な創造の業を見るためだ。それが本当の意味でのイスラーム的信仰の体験知というものだ。本なんか読むのは第二次的で、まず、生きた自然、人間を見て、神がいかに偉大なものを創造し給うたかを想像する」というんですね。ところがこの先生、まるでお金がないんです。


財布の中身はいつもスッカラカンだけど、頭の中にありとあらゆる知識を詰め込み、世界中を渡り歩いて神の創造の業を見て回る。人間として極上の生き方なのではないでしょうか。
まあ、これはごく一部の人間にのみ許された生き方で、われわれカタツムリ的人間は、フウフウ言いながら一生懸命カラを背負って生きていかねばならないのですが(笑)、それでも、そういう生き方に憧れることは許されても良いのではないかと。勿論ワタシは今、ボノさんの姿を思い浮かべていますよ? ヤーウェ~イ♪(笑)