賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

もうこれっきり書かないぞ


「咲」(小林立)を読みました。

まあ実に今頃なのですが、大変面白かったです。正直、こんな面白いとは思ってませんでした。30~40くらいの面白さかなあと値踏みしていましたら、80オーバーの面白さでした。やはり売れるマンガというのは売れるだけの理由があるものなのですね。

最初は絵柄的にイロモノと思ってたんですが(すみません)、思ってたより全然麻雀マンガしてて驚きましたよ。
麻雀マンガなんてここ10年くらい読んでませんでしたが、そういう意味でも楽しめました。部活マンガと麻雀という異質な組み合わせを上手く料理したものだなあと感心しました。

難点を挙げるとするならば、それは登場人物の多さで、5人の選手が4チーム集まると20人になってしまうのですな。いきなり20人からの人数のキャラクターを把握するのは大変でしたよ。「ハイスクール奇面組とか思い出しちゃいますよ。まあみんな魅力的なキャラクタ―ばかりでしたので苦にするほどのものではありませんでしたが、「てんむす」(稲山覚也)の出場選手が1チームあたり5人ではなく4人なのは、この作品を参考にした上でのことなのかあとか思ってしまうワケですよ。

と、わざとらしく「てんむす」に話を持ってきてしまいましたが、確かに設定が色々似ておりまして、「てんむす」がこの作品を意識して作られているのは確かなように思えました。

長い間疑問に思っていたのですが、秋田書店編集部は、なにを期待して、連載経験を持ったこともない新人さんにいきなり「てんむす」を連載させたのか、また「てんむす」の単行本を買ってらっしゃる方は、この作品になにを求めているのか、答えがまったく見つけられなかったのですが、ああナルホド、みんな「てんむす」を「咲」みたいな作品になることを期待していたんだなと。合点がいった!

週刊誌で毎週「咲」が読めるなんて夢のようじゃなイカ。描く人は佐渡川準さんの元アシスタントで、佐渡川準といえば「無敵看板娘」でヒットを飛ばした人。こりゃあアニメ化も夢じゃないな。イケるぜ、沢編集長!
と誰もが夢見てしまいますわいなあ。想定外だったのは、作者の稲山覚也という人が色んな意味で規格外のマンガ家さんであったこと。これは責められない。

アシスタントをやっていただけあって、「技術」は確かにある。あるんだけど、それしかない。以前チャンピオンで集中連載していた「十字架とコイン」(那須信弘)もそうでしたが、技術に「志」がともなっていない。
志というと大袈裟なのですが、要は「気持ち」というのでしょうか、なにを表現したいのか、「これを描きたいからマンガ家になったんだ」というのが感じられない。

より大袈裟な言葉を使わせていただけるなら、「愛が足りない」と思います。「咲」という作品では、麻雀が終わった後でも、卓から離れられず、「このままずっとこのメンツで麻雀したい」というシーンが何度も描かれてますが、「てんむす」にはそういうのが皆無ですねえ。あえて言えば、ヒロインの天子がその「大食い」愛を一手に担っている状況ですが、それ(「めろ~ん」)は残念ながらDQNにしか見えないのが、基本的に作者は大食いを愛してないんだなと分かってしまうのが残念なところです。

また、てんむすというマンガに出てくるキャラクターの言動がブレまくることは定評があり(九士郎が特にヒドい)、それは話の都合によってキャラの性格が変わってしまうんですね。作者のエゴが最優先されてる、という印象です。キャラクターの人格を尊重してないから、作者のその時々の都合でキャラが変わる。そういうキャラクターに魅力を感じるかどうか、作者さんは一度真剣に考えていただきたい。

これは人格攻撃になってしまいそうで、大変申し訳ないのですが、たとえばこういうコマを平気で描けてしまう稲山センセイってなんなんだろうなあって。悪役とはいえあんまりじゃなイカ。もはや性格が悪い、というのではなく、単純に品性が劣悪としか思えないのですが。仮に自分の娘がこんな顔をしてるのを両親が見たら、ひっぱたいて「そんな顔するな!」と叱り飛ばすんじゃないでしょうか。「てんむす」はこういう品性劣悪な連中ばかりで、なんというか「人間ってもう少し素晴らしい生き物なんじゃないかな」と読んでて呟きたくなります。

「咲」ですと、福路美穂子というキャラクターがとても好きなのですが、「てんむす」には間違っても「でも言葉が見つからないの・・・ただ一緒にいるだけじゃダメかしら」と言ってくれるキャラは出てこないだろうなあという気がします。逆に「咲」にはポンコツでも役に立って先生は嬉しいですよ」とか言うキャラは天地が引っくり返っても出てこないと思います。ここら辺は人間観の相違と言いますか「文化が違~う!」としか言えないかもですが、ワタシは福路美穂子さんが出てくるマンガが読みたいんですよ。

主人公チームの人間関係の希薄さも、およそ部活マンガとは思えない寒々しさなのですが、天子の友達が一度も応援に来たことがないというのも、なんか凄い話です。恐らく稲山センセイの脳内には「学校の友達が試合の応援に行く」という発想が微塵もないのでしょう。でも全国大会出場が決まったら、学校のみんなに自慢したいと、主人公たちが垂れ幕を作る話を描いちゃったりする。なんという自作自演! よくこんな、みみっちい話を思いつけるもんだなあと。普通の漫画家さんなら、学校の友達が自主的に垂れ幕を作ってくれる話にするんじゃないかって思うんすよ。

「友情・努力・勝利」という有名な三原則は、その陳腐さゆえに笑われたりもしますが、良く出来た言葉だと思います。あえていえば「カイジ」だって「ベルセルク」だって、この三原則に則ってるとも言えます。それくらい普遍的なタームだと思います。

「咲」もこの三原則に忠実に従って描かれているのですが、だから面白いんだなと。当たり前に面白い。
こんな馬鹿な言い回しをしてしまうのも、こういう当たり前の面白さを特異に感じてしまうほど、「てんむす」のつまらなさは突出したものであるからであり、着目すべきは「咲」が何故こんなに面白いかではなく、「てんむす」が何故こんなにつまらないのか、でありましょう。「咲」を楽しんで読ませていただけただけに、「てんむす」のこの異常な面白くなさが本当に不思議です。マンガは面白いんですよ! 絶対に! 

さて、「題材(大食い)に対する愛が足りない」、「人間(キャラクター)に対する愛が足りない」と、2点ほど「てんむす」の欠点を挙げてみましたが、ここでもうひとつ踏み込んで「マンガに対する愛が足りない」のではないかと、あえて主張したいです。

あまりにも恐ろしい仮定なのですが、作者さんは本当にマンガが好きなのでしょうか? お話の展開の稚拙さからいって、どうもこの作者さんはあんまりマンガを読んでないんじゃないかって気がします。自分の才能に自信があって、「俺のマンガが一番面白い!他のマンガなんか読む必要ない!」っていうのは全然アリなんですけど、それにしては少々お粗末過ぎませんか。自分の描いたマンガでさえ愛してないような、そんな投げ遣りさ満開の展開には呆然としますよ。
毎週毎週、常に予想の斜め下をいくヘボ展開に「マンガを馬鹿にしてるとしか思えない」と腹が立ってくるのですが、それはそれで、いわゆる「クソマンガ愛好癖」のある人には受けるかもしれませんが、「マンガなんてこんな程度でいいんだろ?」という作者の顔が透けて見えてくると、とてもクソマンガとしても愛せません。勿論、稲山センセイがどう考えてマンガを描いてるのか、知る由もありませんが。

と、ここまで悪口雑言を述べさせていただきましたが(もう耐え切れませんでした)、正直自分は「てんむす」の単行本を買ってるファンの人よりも、よっぽどてんむすを読み込んでいるんじゃないかと若干不安に思っています(笑)
そういう読み込み方は恐ろしく不健全ですので、もう本当に今後は「てんむす」については書かないことにします。なんか「そんなコト言っちゃって、本当はてんむす好きなんでしょ?」とか、ツンデレみたいに思われてしまうのもシャクですし。僕は本当に「てんむす」がキライなんですっ!