賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

明日ありと 思う心のあだ桜

 

 
 
以前BIGGERA CURLさんに教えてもらった動画を、今でも何かと聴いてしまう。「ランボーは早死にしたゲーテで、ゲーテは長生きしたランボー」だということを池田晶子が書いていたが、その伝でいけば、「カート・コバーンは早死にしたボノさんで、ボノさんは長生きしたカート・コバーン」ということになる、自分的に。いろんな人にいっぱい叱られそうだけど(笑)
こういったロックでもマンガでもそうなのだが、「本物」とでもいうのだろうか。「あ、この人は本当のことを言ってる(描いてる)」と、一発で分かってしまう人たちがいて、その「本当さ」に感動してしまうのだが、この「本当さ」は、おそらく人それぞれ、千差万別に感じるものだから、それを普遍化して物語るのは、ひどく難しい。
 
そもそも、マンガやロックにそういう感動を求めない、必要としない人たちもいて、それがむしろ当たり前と言って良いのだが、一度そういう感動を知ってしまうと、もう当たり前には戻れない。そしてそんな自分を「一流の漫画読み」として自己卑下してしまうワケだ。
 
話が少し逸れてしまったが、要するにだからこの感動はできるだけ自分の胸の裡にしまっておく方が賢いのだろうと。それでも、愚かと言われようと自分はこの気持ちを吐き出したいんだ!というのなら、それならやむなし、ということなのだろう。愚かと思う廉恥心がないと、それはただの醜い虚栄心の発露でしかない。
 
 

さぁ、みなさんはどうお答えしますか?

と、ナオさんから質問を投げかけられてしまった。色々と考えてみたが、「良い病院に行きなさい」というのが、自分の答えだ。
この人は病気で、自分は病気を治すプロではない。ここはプロの人に任せて、ベストな方法で治癒していただきたい。
その上で、アマチュアなりに精一杯の回答を試みるならば、「犬を飼ってみなさい」と言うだろう。
住宅環境その他で、動物を飼うのは難しいかもしれないが、犬と生活をともにすれば、多くの事を教えてくれるだろうと、犬好きの人間としては言わざるを得ない(笑) 出来ればなるべく出来の悪い、始末に負えない、とんでもなく手のかかる犬がいいでしょう。
 最後に小林秀雄の「文学と自分」からの一節を。
 
 
考えあぐむ、とか思いあぐむとかいう言葉がある、思いあぐんだ末、とうとうあの女は自殺してしまったと言います。こういう言い方には深い仔細があるのであって、例えば、人類について遠大に思索している思想家は、果ては自殺してしまった女なぞ眼中にはないかも知れないが、ものの考え方については、女の方が正統派かも知れませぬ。恐らく女はつまらぬ事をくよくよ思い患ったのだ、何日も水の流れを見て暮らしたのであるが、それは、つまらぬもの、不完全なものから、一筋に生きる工夫を凝らした事である、過ちに過ちを重ねる様な考えの糸を辿ったかも知れぬが、もうこの先に工夫の余地は全然ないという処まで考えを押し進めた事には間違いない。そして死ぬ事だけが生きる道だという結論を得たからさっさと死んでしまったのである。これは正しい考え方である。もし女が死ぬ間際に生について翻然として悟る処があったら、彼女は立派な思想家ではないか。これに類した経験をお持ちの方は、皆さんのうちにも多かろうと思います。生活のなかで、物を考えるとは、こういう筋道を通る他はないからであります。