賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

花間草章――無善無悪説(伝習録上巻102条)その3

(薛侃が)いう、「草が、もはや悪ではないのなら、草は抜かなくてもよいのですね。」と。

(先生が)いう、「そういう考えこそが、むしろ仏者や老荘の徒の意見なのだ。草がもし邪魔なら、あなたが抜き取っても少しもかまわない。」と。

(薛侃が)いう、「そうならば、これもまた作為して好んだり悪(にく)んだりしたことになりませんか。」と。

(先生が)いう、「作為して好んだり悪んだりしない、ということは、好んだり悪んだりすることを全くしないということではない。これでは知覚のない人間ではないか。

作為しない、というのは、好んだり悪んだりする(感性の活動)が、(本来性のままに発動するから)すっかり天理にかなうことであって、そこには先見を一切介入させないことである。

こうするからこそ、それこそ好んだり悪んだりしないことと同じなのです。」と。

(薛侃が)いう、「草を抜き取るには、どのようにすることが、すっかり天理にかない、先見を介入させないことになりますか。」と。

(先生が)いう、「草が邪魔ならば、天理として抜き取るべきだから、抜き取るまでのことです。たまたますぐに抜き取らなかったとしても、心を煩わしたりしません。もし、いささかでも(抜き取らねばならぬ、と)先入観にとらわれたら、それこそ心(実践主体)の本体は煩わされることになり、さまざまに身体に制約された活動をしてしまうでしょう。」と。

 

 

子曰わく、ただ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」(論語 里仁編4)ということなのでしょうか。

 

正しく好み、正しく悪む。これも立派な至善なんですね。最初に善も悪もないって言っちゃうから混乱しちゃうじゃないの。

 

問題はこの「正しさ」を保証する「天理」の正しさをいかに保証するか。身体の制約から解放された心(実践主体)は正しく天理に従うことができるのか。

それが朱子学陽明学との分水嶺になるのだろうなあ。まだ全体の半分くらいなのですが今日はここまでにします、ぺっこりん。