賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

花間草章――無善無悪説(伝習録上巻102条)その4

(薛侃が)いう、「善悪は、全く(客観的)存在物とは関係ないんですね」と。

(先生が)いう、「もっぱら主体者のあり方いかんだ。(心=主体者が)天理にかなうことが、善であり、(心が)身体に制約されて発動するのが、悪である。」と。

(薛侃が)いう、「とどのつまり、存在物は(もともと)善悪などないのですね。」と。

(先生が)いう、「人間(心)だってこうなのだから、存在物だってそうだよ。世間の学は全くこのことがわかっていない。主体(=心=人間)を疎外して外物をおいまわし、『格物』の学問を誤解して、一日中かけまわって外に(理を)求めているが、義を(後天的に)取得することをやってるだけのことで、生涯かけて実践しても著(あき)らかにならず、習得しても明察しないさ。」と。

(薛侃が)いう、「好色を好むが如く(善を好み)、悪臭を悪(にく)むが如く(悪を悪む)するというのは、どうですか。」と。

(先生が)いう、「それこそがまさしく、ひたすら天理にかなうことです。天理とは、本来こうあるべきなのです。天理とは、本来こうあるべきなのです。もともと作為して好悪を発動する身勝手な考えなどではありません。」と。

 

 

間を空けてしまい、申し訳ありません。引き続き花間草を続けます。

とうとう出てきましたねえ、「色を好むがごとく徳を好む」。徳を得ることをたとえるに、好色をもってする孔子の態度に、古来より物議を醸してきたようですが、小林秀雄はこんな風に言ってます。

 

 

(中略)この考えは、「論語」に現れた大変重要な考えなのであって、「吾未ダ徳ヲ好ムコト色ヲ好ム如クナル者ヲ見ズ」という言葉が二個所に出て来るが、同じ言葉に、一個所では「巳ヌルカナ」(どうにも仕方がない)と孔子は附言しているのである。

色を好むということは、自発的な純粋な動きだが、そういう行為の自発性と純粋性とを、孔子は徳行において求め、それが何処にも発見出来ないことを嘆く。

孔子は、道を論じ、仁を解く者の、自ら知らない自己欺瞞が、いかに深いものであるかをよく知っていた。

真理を言い、正義を解き、国家の為、社会の為を思って、己れを殺していると自ら信じながら、その動機に不純なものをわれ知らず持っている人が、いかに多いかを看破していた(郷原は徳の賊なりー!by賽の目)。

孔子は、そういう徳を好む自称道徳家より、色を好む平凡人をよしとする(すばら!by賽の目)。彼は、徳を言って、巧言を離脱することがいかに困難であるか、道徳とはいかに危険な仕事であるかを、はっきり知っていた。それが彼の思想の根本の力である。(小林秀雄論語」より)

 

 

 

やっぱ小林秀雄の文章はカッケーなあ。

それはさておき、性欲などまさに躯殻(身体)に制約された作為なのではないかと思ってしまうのですが、孔子も、また王陽明も「そうではない」と否定するのでございます。徳を求める行為に、性欲のような自発性と純粋性を要求する。スピノザニーチェにも通じるような考え方ですが、この分かりにくさがまた面白いですよね。