賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

無痛文明論(森岡正博)を読んだ

 

 
以前、こちらの記事で紹介したこともある曲なのですが、一時期ヘヴィロテでこの曲を聴いてました。
有名なアルバムですので、いささかと言いますか、かなりこっ恥ずかしいのですが、これは良いアルバムですね。時にこれはちょっと甘ったる過ぎるのではないかと感じるところもあのですが、この曲は甘い陶酔の中にある種の苦々しさが含まれていて、まるでU2みたいだと思うワケですよ(笑)
 
さて、そんな「Painless(無痛)」という曲にハマってた折に、「無痛文明論」という本に出会ってしまい、「これは読めという事なんだな」と手に取ってみた次第ですが、なかなかに硬派な本でありました。
 
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こういう、生きる意味とは何かを真っ向から問いかける本は久し振りに読んだ気がします。初めて読んだんですがなんですか、森岡正博さんという方は日本のコリン・ウィルソンみたいな立ち位置にいらはるのでしょうか。

本の趣旨については実際に読んでいただくことにして(手抜き過ぎい!)、面白いと思ったのは、文明社会が仕掛ける無痛化装置を解除する方法を色々と具体的に挙げていて、その具体性がいちいちツボだったのですが、特にこの個所が興味深かったです。


 第四に、直接の解体でも説得でもない手法として、無痛化装置の内部に組み込んで、そこに時限爆弾を仕掛けてくるというやり方である。たとえば、われわれは、無痛化装置としての娯楽産業を解体しなくてはならない。しかしながら、娯楽産業を解体することに賛同する人間はほとんどいないに違いない。だから、何か別の戦略が必要となる。その場合、無痛文明と戦う者自身が、娯楽産業の現場に乗り込んで、娯楽産業を生み出す当事者となり、そのあとで娯楽産業の内部に無痛化装置を解体する仕掛けを組み込むという方法がある。すなわち、娯楽産業を消費する人々が、ふと気づいたら自分自身の頭で悔いなき自分の人生のことについて考えはじめていたという結末になるような仕組みを、娯楽産業の装置や作品の中に埋め込んでおくのである。(407ページ)
 
うーむ、なんというかロックですな。
自己を破壊する、または否定するエネルギーがロックだと思うんですが、それを戦略的に表現すると上記の文章になるのではないかと。
 
レディオヘッドやU2などはその典型だと思いますが、ロックとポップを隔てる分水嶺はまさにこの点ではないかと思われます。見かけはロックっぽくてもどうしょうもなくクズなバンドもあれば、キラキラのポップソングに見せかけて恐ろしくヘヴィな曲もある。
 
良いバンドか悪いバンドか、その価値観は人それぞれですが、ロックなバンドとそうではないバンドというのは、自分にとっては明確に判断できまして、それを上手く言葉にしてもらえたなあと、「無痛文明論」を読んで思いました
 
その判断基準を洋楽以外でも適用してしまうのがワタシの悪いクセなのですが、言うまでもなくロックな作品=良い作品というワケでは決してありません。大抵はロックでもない場合が多いかもです、ダジャレかっ。
 
それはさておき、例えば増田英二さんの「透明人間の作り方」などは大変ロックな作品だと、ワタシなどは思ってしまうのですよ、未単行本作品を取り上げて言うのも何なんですが。
 
連載第1回で、主人公の真二君が見せたこの表情にドキリとしたものですが、この顔は10代の人間特有の厭世観とは異なる「絶望」を感じさせます。
真二君は多分、抗いようもなく家畜として生まれ家畜として死んでいく自分の人生が見えてしまったのだと思う。
 
文明とは人間による人間自身の家畜化であると、自己家畜化論は主張する。たしかにそのように考えると、われわれがこの社会のなかでかかえている何ともいえない不全感や焦燥感を説明できるような気がする。われわれは人間だが、同時に家畜でもあるというわけだ。・・・現代社会に生きる人間は、都市という家畜小屋に囲い込まれて、食料と安全を与えられることと引き替えに生命の輝きを奪われてしまったブタなのだ。(10ページ)
 
都市に対する嫌悪感。自分を守ってくれ、快適な生活を保障してくれるはずだが、どうしようもなく拒絶感が生まれる。
三原順というマンガ家さんが、しばしばそういう嫌悪感を作中で表現していましたが、「透明人間の作り方」を最初に読んだ時、まず三原順さんの「ムーン・ライティング」のことが頭に浮かびました。
ムーン・ライティングでは、主人公の友達のトマスがブタになってしまいましたが、真二君は透明人間になります。いずれにしても象徴的であります。
 
 
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