賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

知性改善論(11節~15節)

前回までの流れ「他人が求めている喜び(善)は当てにはならない。でもそういう自分も、そんな不確実な喜びに未練を残してしまう・・・ピンチら!」



<11>ここに、唯一わかっていたことがあった。それはこうした思想にたずさわっているその間だけは、精神が以上の如き欲望から離れて、真剣に新しい計画について思惟していたということこれである。この事は私にとって大きな慰めとなった。何故なら私はそれらの悪たるや、いかなる対策を用いても避け得ないような、そんな事情の下にある悪ではないということを知ったからである。そしてかかる期間は、最初には稀であり、またはなはだ短時間しか続かなかったけれども、真の善なるものが次第次第に私に明白になってきてからは、それがよりしばしばになり、かつより長く続くようになった。特に私が貨殖あるいは官能欲また名誉欲はそれ自らのゆえに求められる限り、すなわち他物への手段として求められない限り有害であることを知った後は。何故なら、もしこれらのものが手段として求められるとすれば、ある程度を越すことなく、決して有害でない、それどころか、しかるべき場所で我々の示すだろうごとく、かえってその求められる目的のため寄与するところが多いからである。


<12>ここでちょっと簡約に、私が真の善をいかに解するか、また同時に最高の善とは何かを語りたい。これを正しく理解するためには、次の事に注意せねばならぬ。すなわち善いとか悪いとはただ相対的にだけ言われているのであり、従って同一事物でも異なった関係においては良いとも悪いとも呼ばれ得るということである。これは完全だとか不完全だとかいうことと同様である。事実いかなるものも、その本性において観れば完全だとも不完全だとも言われない筈だからである。特に生起する一切のものは、永遠の秩序に従い、また一定の自然法に従って起こることを我らが知るだろう後は。


<13>しかし人間は、無力にもその思惟をもってこの秩序を捕捉しかねるから、そして一方、人間は自分のそれよりか遥かに力強いある人間本性の存ずることをみとめ、同時にかかる本性を獲得することを妨げる何物をも認めないから、彼はかかる完全性(本性)へ自ら導く手段を求めることに駆られる。そしてそれに到達する手段たり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善はしかし、彼ができる限り他の人々と共に、かかる本性を享有するに至ることである。ところで、私の得んとする本性がいかなる種類のものであるかは、しかるべき場所で示す筈であるが、言うまでもなくそれは、精神が全自然と合一していることを認識し得べき状態(cognitio unionis quam mans cum tota Natura habet)を指すのである。


<14>ゆえに、私の志す目的は、かかる本性を獲得すること、並びに自分と共々多くの人々にこれを獲得させるように努めることにある。換言すれば、他の多くの人々に私の理解するところを理解せしめ、彼らの知性と欲望とを、全然私の知性と欲望とに一致せしむるように努力することがまた、私の幸福にとって重要なのである。このためには必然的にまず第一にかかる本性を獲得するに十分なだけ自然について理解せねばならぬ。第二に出来るだけ多くの人々が、出来るだけ簡単かつ安全にそこに到達するに都合の良いような社会を形成せねばならぬ。


<15>なお、第三に道徳哲学並びに児童教育学の為に努力せねばならぬ。また健康は、この目的に至るに大事な手段だから、第四に全医学が整備されねばならぬ。また技術は多くの難しい事柄を簡単なものにして、我々に人生における多くの時間と便宜とを得させてくれるから、それゆえ第五に機械学を決して等閑視してはならぬ。




続く・・・残り3節。