賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

「ドビュッシー音楽論集」を読む

我慢のならない薄笑いが、音楽について話すときに特にうかぶので、ふと思いついて私は彼に職業をたずねた。
断じて有無を言わせぬ声で彼はこたえた。
「反好事家(アンティディレッタント)……」  (1 クロッシュ氏・アンティディレッタント

うおお、クロッシュ氏、カキ――!!
なんか、7月中は、忙しくってしょうがなくて、マンガしか読んでなかったような気がするんですが、「マンガしか読んでない30男ってどーよ?」と、自分でも思いますので、図書館行って、本を借りてきました。図書館に行ったのって、何ヶ月ぶりだ~(泣)

で、早速これを借りてきたんですけど、面白いよ、面白いじゃないですか。「音楽論集」などと、堅っ苦しいタイトルが付いてますが、これは「エッセー」ですね。タイトルで随分損してるんじゃないかと思う。
とりあえず、もうとっくに返却期限を過ぎてしまっているので、返す前に、気に入った文句を、ここにメモメモ。

ベートーヴェンはびた一文も文学的ではなかった(すくなくとも、今日このことばが負わされている意味では)。彼は誇り高く音楽を愛していた。音楽は、彼にとって、私生活にああも手ひどく欠けていた情熱であり歓びであった。たぶん『合唱交響曲』のなかには、音楽的な倨傲のまるで並外れた身ぶりをしか見てはならず、それに尽きるのである。 (3 交響曲

私たちのうちにあるもっともよいものを、彼ほど優しく深みのある口調で話した者はいない。前例のないその芸術、ひからびたきまり文句のないその芸術によって、彼は独自だし、今後もまた独自でありつづけるだろう。かつてかくも洗練された感受性が、かくも単純な方法で翻訳された、ためしはない。 (4 ムソルクスキイ)

バッハの音楽においてひとを感動させるのは、旋律の性格ではない。その曲線である。さらにしばしばまた、多数の線の平行した動きだ。それらの線の出会いが、偶然であるにせよ必然の一致にせよ、感動を誘う。こうした装飾的な構想に、音楽は、公衆が感銘を受け心象をいだくようにはたらきかける機械のごとき確実さをもたらす。 (6 名演奏家

ドビュッシーという人が、ムソルグスキーを尊敬してて、影響を受けてたってのは知ってたけど、終生の間、バッハを熱愛してて、モーツァルトベートーヴェンを尊敬してるって・・・まるきり古典派じゃん!
こういう人が現代音楽を牽引していったのか。全っ然、想像していた人とは違っていたよ。驚いたなあ。

「独自(ユニーク)なままでいることです……世間ずれしないでね……周囲の熱狂は、私に言わせれば芸術家を甘やかすことさ。彼がやがて周囲の表現でしかなくなるのではないかと、私はおそれてさえいるくらいです。
 弱者にふさわしい老衰した哲学のきまり文句にでなく、自由のうちに、みずからを律する基準をもとめなければいけない。誰の忠告もきかぬことです。吹きぬけざま世界の歴史を私たちにものがたる、風のそれのほかには」(1 クロッシュ氏)

独自(ユニーク)であること、自由であること。そして“自然”であること。これがドビュッシーにとって音楽を作る上で大事なことらしい。

〈ぼってり大きく〉ではなく〈偉大〉につくるのが大切だということを、理解する必要がある。くりかえして過度にひびかせ、谺をうんざりさせることでなく、大衆のこころのなかの調和にむかうあこがれを伸ばすよう音楽を生かすことが、かんじんだ。大気のゆらめき、樹々の葉のそよぎ、そして花のかおりの神秘の協調が、実現されるにちがいない。音楽は、これらのすべての要素を、そのおのおのの性質を帯びていると思えるくらい全く自然な融和のなかで、結びあわせることができるからだ…… (10 野外の音楽)

誰に音楽創造の秘密を知ることができるでしょうか? 海のざわめき。天と地とをへだてる曲線。葉叢をゆく風。鳥の鳴き声。こういったすべてがわれわれのうちにさまざまな印象をしずみこませます。そして、突然、こちらの意向とはおよそなんのかかわりもなしに、それらの記憶のひとつがわれわれの外にひろがり、音楽言語で自分を表現する。それは、自身のなかにみずからの和声をやどしてます。どんな努力をしてみたところで、それよりもっと適切でもっと心のこもった和声を見つけることはできないでしょう。ただ上のごとくしてのみ、音楽に運命づけられた心は、こよなく美しい発見をします。  (1 クロッシュ氏の註より)

う~む。こういう態度で作曲していたとはなあ。もっと合理的というか理性的というか、人間至上主義的なところがある人だと思ってた。
これだと、フリップ翁のいうところの「善意の妖精(ベルゼバブ)」に近いものがあるよな(笑)

フランス音楽、それは明晰さ(クラルテ)であり、優雅さ(エレガンス)であり、単純で自然な朗ようです。フランス音楽は、何よりもまず〈たのしませよう〉と欲します。クウプラン、ラモー。彼らこそ真のフランス人です! あのグルックのやつが、すっかりだめにしてしまいました。彼はなんてまあ退屈だったんだ! なんてまあ衒学的だったんだ! なんてまあ大げさだったんでしょうね! 彼が成功したなんて、私には想像もつきません。だのにモデルにされたんだ、真似しようって人がいたんですから! 何という錯誤だろう! 魅力を感じたためしがありません、あの男には! あの男くらいがまんがならない音楽家ってのは、ほかに一人しかしりませんね、ヴァーグナーです! (訳者覚書より)

こういった、他の音楽家に対する悪口もあったりするんですけど、このテの悪口特有の陰湿さが感じられないのは、それは天才ならではの独断というか、いささかも自分を良くみせようという意図がないからなんでしょうね。ワタシは無論、音楽知識はゼロに等しいので、ここに書かれていることが、ホントか嘘か分からないんですが、この人が正直に語っていることは、これは分かります。凡人は常に粉飾しますが、天才はいつも正直です。

……私は何も革命なんかおこしてませんよ。なにも解体なんかしてないんです。静かにわが道をゆくだけ。革命家につきものの、自分の考えの宣伝なぞ、これっぽっちもやらずにね。
 私は、ヴァーグナーの敵でもありませんよ。ヴァーグナーは天才です。ただ、天才ってのは、間違いをおかすことがあるんだな。ヴァーグナーは、和声の法則の側につきましたね。私は自由のほうをとります。自由は本来約束事に縛られません。私たちの周囲にきこえる音はみんな、聴かれていいんです。するどい耳がまわりの世界の律動(リトム)のなかにききとるものは、みんな音楽的にあらわすことができます。何よりもまず規則にしたがいたがる人たちがいますが、私はですな、私が聴くものしか、鳴らそうとしません。
 ドビュッシー派ってのは、ありませんよ。私は弟子をもっていません。私は私です。
 ベルリオーズモーツァルトベートーヴェンは、私が尊敬する巨匠です。とりわけ、あとの二人がね。ベルリオーズは、どうも古くさいかつらにロマンティックな捲き毛をつけてるんで……  (訳者覚書より)

カッコいいなあ、もう。ちなみにワタシはドビュッシーの作品は、「亜麻色の髪の乙女」と「アラベスク」くらいしか、聴いたことがないです。「クラシック名曲選」みたいなので(笑)
今度ツタヤに行った時は、ちゃんと借りてきて聴いてみよう、うん。