賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

サラエヴォ公演とブラッディ・サンデー

戯言ばかり書いてるのもなんなので、今度はU2話です(笑)

激しく今更なのですが、以前酔月亭さんから教えていただいたPOPMARTツアー、サラエヴォ公演の音源を聴いてみました。

POPMART公演自体、久々聴いたのですが、冒頭のPop Muzik→Mofo→I Will Followの流れは、やはり圧巻ですねえ。
この時のボノさんの喉の調子は最悪と聞いてたので、全然声が出てないのかと思ってたんですけど、思ってたよりもひどくなかったですね、ちょっとガッカリ(笑)。ワタシの持ってるブートの中では、ヨシュア・トゥリー・ツアーの二日目の時のボノさんが最悪ですね。このサラエヴォ公演は2番目くらい(笑)

とはいえ、New Year's Dayあたりから高音がまったく出せなくなってきて、Prideはかなり苦しそう。でも、Stand By Meでの、観客の盛り上がりっぷりを聴いてると、ボノさんの喉のコンディションなんて、どうでもいい問題に思えてきますね(笑)

観客が主役」という言葉は、よく耳にしますけど、U2のライヴは特にそうですね。ブートを買ってきて、音質がどーだ、声の調子がどーだとか、いろいろ文句をつけてしまう自分が恥ずかしくなってくるなあ、もう。

ことに、今のU2は、明らかに“神の領域”に入ってまして(笑)、前人未到の領域に踏み込みつつある、このバンドと、自分が今、同じ時代に生きて、同じ空気を呼吸しているという、それだけで幸せな気持ちになってしまいます(笑)
こんなバンド、今までなかったし、これからも出てくることはないでしょう。ナンバー・ワンにしてオンリー・ワンですよ(笑)

それはともかく、このライヴからエッジによる、「Sunday Bloody Sunday」の弾き語りが始まったんでしたっけ? 長らく封印されていたこの曲(散発的に演奏されてたみたいですが)が、ここでエッジの独演で復活したのは、劇的ですね。カーター・アランという人がしるした『世界の涯てまでも』という本の359ページに、こんな記述があります。


(中略)「〈ブラッディ・サンデー〉。あの曲には、ぼくらはちゃんと言葉をつけられたと思う。ぼくら、というのは実際、あの問題(「ブラッディ・サンデー」に表現された暴力に関する問題)に迫ろうというのは、エッジのアイディアだった。だけど、みんなぼくが考えたと思っている。ぼくが旗を持っているから」
 彼(ボノ)はそう言って、くすくす笑った。
 エッジは窓の外をじっと見つめながら言った。「おっと、じゃあ今度は、ぼくが責められる番かな」

そう、あの曲は、エッジの発案のもとに作曲されたんですね。
ところで、エッジの弾き語りでは、ブラッディ・サンデーは2番までしか歌われてません。3番の歌詞は、under_the_shiny_skyさんが、こちらの記事で訳されてますので、恐れ入りますが、少々引用させていただきます。


 我々は慣れてしまっている
 フィクションとTVの中の現実に

 今日も何百万の人が泣き、
 明日には死んでいってしまうという側で
 我々は飲み食いをしている

 本当の戦いは始まったばかりだ
 イエスが勝ち取った勝利を求めよう

これは、厳しい歌詞ですね。under_the_shiny_skyさんは「claim」という言葉を「求めよう」と翻訳してらっしゃいますが、「クレーム」という言葉が日本語として定着してますが、もっと強い言葉なのではないかと、無学ならではの蛮勇で思います。


あの曲を聴くと、自然に歌が出てくるんだ。〈ブラディ・サンデー〉の場合、ラリーがあのビートを刻みはじめ、エッジが最初のコードを鳴らすと、まるで歌がひとりでに生命を得るような感じになる。あの歌はぼくにとってすごく大きな意味を持っている。それはぼく自身、あの歌を正しく理解してたのかどうか、自分でもよくわからないからなんだ。まちがって解釈していたかもしれないんだよ。 

ボノは、ブラッディ・サンデーを歌うたびに自問自答している。というより、この曲と対決している。正しいのか、間違っているのか。自分には分からない。それでも、自分はこの曲を歌わずにはいられない。まるで曲と刺し違えるように歌っているボノの姿に、オーディエンスには、どう映っているのだろうか。
後にボノさんは、こんな風に回顧している。


でも『WAR』を聴き返してみると自分でも感じるんだ、あのレコードに込められた怒りを。だから聴いてて居心地悪いんだよ。だから他人の視点で一体自分がどんな風に映っていたかがわかったんだ。お説教をたれて、街頭演説でもしてるみたいだって。

この「怒り」は無論、オーディエンスに向けられたものではない。だが、大音量のマイクで怒鳴っている人間が、自分自身に向けて叩きつけていると誰が思うのだろうか。そして、この「怒り」がその後、映画『魂の叫び』に収録されたブラッディ・サンデーの演奏で、「フ○○ク・リヴォルーション!」という絶叫で爆発することとなる。


(「ブラディ・サンデー」は)ある意味では映画の中に入れたくないと思った。また別の意味では自分の言ったことはすべて支持しようと思った。真実だからね。あの日あの晩、そんなふうに感じた。フィル・ジュアノーのおかげだね。彼が俺たちを説得したんだから。個人的には、またこの歌を演る日が来るかどうかはわからない。歌としての「ブラディ・サンデー」とそれが抱えるものに疲れてしまった気分なんだ。(1988年11月)『ボノ語録』より

そりゃ、疲れますよ(笑) あの歌詞は、ロック・バンドとしての域をはるかに超えてしまっています。実際この曲を作った当時、ボノはバンドを辞めることを考えていたと後に語ってます。だからエッジが、この3番の歌詞をあえて省いて演奏した時、この曲は「疲れない」曲へと昇華したのではないでしょうか。

POPMARTツアー後、21世紀に開始されたElevationツアーでも、「ブラッディ・サンデー」が演奏されましたが、この時にはもう、この曲の、あえて言えば「呪縛」から完全に逃れ、曲として、ソングとして演奏されていたとワタシは思います。

その「ブラッディ・サンデー」を、拍手大喝采で、ジャンプしながらニコニコと楽しんでいる(主にアメリカの)オーディエンスに対して、違和感を覚えた人もいらしたようですが、あれで良かったんだとワタシは思います。おそらくはバンドのメンバー自身、「ブラッディ・サンデー」を、そのように迎えられることを望んでいたのではないかと思いますから。

果たして、今回のVertigoツアーでは、彼らはどのような気持ちで「ブラッディ・サンデー」を演奏しているのだろう。そしてワタシは、その曲を目の当たりにした時、どのように受け止めるのだろう。来日が本当に待ち遠しいです。


・・・あ、良かった。なんとか、まとまったよ(笑)