「さくらDISCORD」断想
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U2というバンドがあるのだが、彼らの音楽に初めて出会った時のことを思い出す。こういう音楽に、自分はどれだけ飢えていたのか。ハマってみて初めてそのことに気付かされる。さくらDISCORDもそうだった。
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ただ、U2とは異なり、この作品は市場受けしなかった。非常に口惜しいが、売り上げという点では、この作品は「てんむす」以下であった。やはり自分は将来的に創作同人系の方に行くべきなのかも、とちょっと思ってしまった。こういう作品をみんなもっと面白がってくれたら嬉しいのだけれど。
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「愛する」とは「理解する」ことだと思う。愛したいというのは理解したいということだ。
少し読んだだけで、「ああ、分かる」という作品をたくさん知っていることは、幸せなことだと思う。
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「『さくら』達が集まってなにか始まるんだと思ったら、なにも始まらないで、ささいなことを大袈裟に騒いでばかりいる。これの何が面白いんだ?」。しかりごもっとも! その気になれば、球技大会のアレコレやら修学旅行のアレコレやらで、もっとちゃんとした青春ドラマを描くことも出来たのではないかと思う。出来たと思うけど、そうなってしまったらここまで夢中になれなかったかもしれない。
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『さくら』達が集まることは「手段」ではない。『さくら』達が集まることが「目的」なのだ。そういう意味でこの世界は閉じている。それが自閉的で気持ち悪い、という人がいる。同感だ。だが、そういう閉じた空間が必要な人が、必要とする時期が必ずある。
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「
記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」という、あまりに有名な、小林秀雄の言葉が、この作品の主調低音な気がする。人間を人間たらしめているのは、この思い出すという機能にある。だが、上手に思い出す事は非常に難しい。
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その言葉は、自責の念で押し潰されそうになっていた、あの頃の康介の心には届いてなかった。もういいはずがない!
そして月日が経って、今度はノ宮さんの口から同じ言葉が届けられる。なにが「もういい」のか、それが今では驚くほど分かる。分かる為には、どうしても、この月日が必要だったのだ。上手に思い出す事は非常に難しい。
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自分が弟の死に沈没したら、修一や康介もみんな崩れ落ちてしまう。そんな気持ちもあったかもしれない。自分が平気でいることで、みんなを救うことができる。でも、それは弟の死を悼むことを拒否することでもある。
「もう、いいんだ」という言葉が、またもノ宮さんを通してハルカさんへと返ってゆく。「もう、泣いてもいいんだ」。リフレイン。まるで音楽のよう。
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こういった心理描写をマンガでやるのは、なかなかの冒険だ。ましてや週刊少年誌で。
でも、少年誌だからこそやるべきだという気もする。それがジャンプでなくチャンピオンだというのが個人的に嬉しい。いや、ジャンプでもやってるかもしれないけど。読んでないんで。