賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

楡の木

「葉が出はじめた。まもなく小さな青い毛虫が楡の木について、葉を食いつくすことだろう。木はいわば肺をとられたようになってしまう。そのうちわかるが、木は窒息しまいとして、新しい葉を出し、もう一度春を迎える。しかし、この努力のために木はまいってしまう。一、二年もたつと、若葉を出さなくなり、枯れてしまうよ。」
 植木好きの友だちが、いっしょにかれの庭を散歩しているとき、こう嘆いていたものだった。かれは百年にもなる楡の木を指さして、それが遠からぬうちに枯れることを告げた。わたしはかれに言った。「やっつけなきゃだめだ。こんな毛虫なんか弱いものだ。一匹殺せるなら百匹でも千匹でも殺せるよ」と。
「千匹なんてもんじゃない。何百万といるんだ。考えただけでもいやになる」と、かれは答えた。
「しかし、きみには金があるじゃないか。金があれば人手が雇える。十人の職人が十日も働けば、千匹以上も毛虫を殺せるだろう。こんなりっぱな木を生かしておくために、二、三百万フランの金を奮発してみないか」とわたしはかれに言った。
「金はいくらでもある。だが、職人がまるでいないんだ。高い枝なんかどうやって登るんだ。刈り込み職人でなくちゃだめだ。この辺には、ぼくの知っているのはふたりしかいないんだ。」
「ふたりいれば、それだけでもなんとかなる。そのふたりに高い枝をやらせるのさ。熟練してないほかの連中には梯子を使わせるんだ。全部の木を助けることができなくても、すくなくとも二本か三本は助けられるだろう。」
 最後にかれは言った。「おれには勇気がないんだ。おれには自分のすることがわかっている。毛虫が侵害するのを見るのがいやさに、しばらくここを立ち去るだろうよ。」
 わたしは答えて言った。「想像力の力はすごいものだな。きみは戦わないうちから負けている。自分の手のとどくところだけを見ていればいいんだ。物事の手のつけられない厄介さと人間の弱さとを考えたら、なにもできやしない。だから、まず行動してみて、それから自分の行為のことを考えることだ。石工を見てみたまえ。しずかにハンドルを回している。大きな石はわずかしか動かない。ところが、やがて家はできあがり、階段では子どもたちがはねまわる。わたしは或るとき、職人が厚さ十五センチもある鋼鉄の壁に穴をあけようとして、柄の曲がった錐にかじりついているのを見て、感心した。かれは口笛を吹きながら道具を回していた。鋼鉄の細かい削りくずが雪のように散っていた。この男の大胆さにわたしは心をとらえられた。十年前の話だ。かれがこの穴をあけ、ほかにもたくさん穴をあけたことは受け合っていい。毛虫そのものが、きみに教訓を垂れている。楡の木にくらべたら、毛虫なんかなにほどでもない。だが、歯ですこしずつ噛んでいるうちに、一つの森を食い尽してしまう。小さな努力を信じ、虫にたいしては虫となって戦わなければならない。無数の原因がきみの味方となって働いてくれるよ。さもなければ楡の木はとうになくなっているだろう。運命は定めのないものだ。指をひとはじきしても新しい世界ができあがる。どんな小さな努力でも、限りない結果を生じる。これらの楡の木を植えた人は、人生の短さなど思いめぐらしたりはしなかった。きみもその人にならって、自分の足もとより遠くを見ないで、行動に身を投じたまえ。そうすれば、楡の木も救われるだろう。」(一九〇九年五月五日)



アランの『幸福論』(集英社文庫)より。大変感心したので、思わず全文引用してしまったり。