賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

栗本薫(中島梓)さんを偲ぶ

長らく、氏の著作(特に小説)には目を通しておらず、もはやファンであるとはお世辞にも言えないのであるが、若かりし頃、この人の本には大層影響を受けていた。「物語」というものに対するワタシの認識は、ほぼこの人に負っていると言って過言でなく、ここ数日、氏の著作を読み返してみて、文体やら考え方やら、改めて「影響受け過ぎだよ、俺」と、自分にツッコんでしまった。

謹んでご冥福をお祈り致します。




小説はいまもなお、多くの人々をうごかすに足る無限の可能性をはらんだメディアである。それはいくら書いても書いても書きつくされることなどはない。私たちがこうして人間として存在し、社会が時の流れにしたがって動いているかぎりは私たちは物語に倦むことなどありえないのだ。小説とは、文学とは「誰かの一生の物語」であり、私たちは自分自身が時の奴隷である、あわれな須臾の生をいきるはかない虫けら、カゲロウであると感じれば感じるほど、「ほかの誰かの物語」を知りたい、それによって自分自身を普遍化して感じたいし、人間の営為が時を一瞬なりとも超越し、征服したと感じたいものだからである。そうであるかぎり、私たちに「物語が要らなくなる」ときはやってこない。手書きでますやの原稿用紙に文字を埋めてゆく着流しの作家が私小説をかくのが文学である、というようなばかげた時代遅れの思い込みはほとんど罪悪にひとしい。感覚を世界にひろげよ、自由にせよ。文学はただその入口にすぎない。本当にその奥にあるのは「人間」という名前の物語である――それは決して語り終えられることはない。(中島梓「夢見る頃を過ぎても」より)

読み返した本の中で最も心動かされた一文など。自分がなんでマンガを読んでるのか、思い出しましたよ。