賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

知性改善論(6節~10節)

前回の流れ「最高の善(喜び)をゲットするぜ!・・・でもどうやって?」




<6>かくて、これらすべてがある新しい計画のために努力することの妨げになることを、それどころか必然的にそのどちらかを断念しなければならぬほど、互いに背反していることを見た時に、私はいずれが私にとってより有利かを吟味すべく強いられたのである。何故なら前に言ったように、私は不確実な善のために確実な善を放棄しようとするかに見えたからである。しかし少しこの問題を熟考してみて、まず私は次のことに、すなわちもし私がそれらを捨てて新しい計画に取りかかるなら、前に言ったことから明らかに帰結される通り、その本性上不確実な善を、その本性上は不確実でない(私は不動の善を求めたのだから)が、ただその取得に関してのみ不確実な善のために捨てるのだということに気付いた。


<7>なお引き続き省察した結果、この場合ただ深く思量し得る限り、私は疑いもない悪を捨てて疑いもない善を得んと努めるだろうことを認めるにいたった。何故なら私は自分が非常な危機に臨んでいて、いかに得難い対薬でも、全力をもって求むべく余儀なくされているのを見たからである。あたかも、ある対薬を施さなければ確かに死ぬと自ら予見している重篤の患者が、彼の全希望は懸かってその対薬にあるゆえに、たとえ得難いものでもそれを全力を挙げて求めざるを得ぬと同様に。まったく、人々の追求しているすべてのものは、いたずらに我々の生存の維持に対してなんらの対薬を給しないのみか、かえってその障碍になるからである。すなわち、それらのものはこれを所有(もし一般にそう言っていいなら)する人々にとってはしばしば滅亡の原因となり、逆にそれから所有される人々にとっては常に滅亡の原因となっているからである。


<8>実際、その富のゆえに死ぬほどの迫害をこうむった人々の例や、また財を手に入れるため身を多くの危険にさらして、ついには自らの愚行の報いを生命をもって償った人々の例ははなはだ多い。名誉を得、あるいはこれを保持せんとして悲惨な苦しみをなめた人々の例もこれに劣らない。最後にまた過度の快楽のため自らに死を早めた人々の例に至っては数限りない有様である。


<9>さてしかし、こうした禍いは、自分には、すべての幸福あるいは不幸はただ我々の愛着する対象の性質いかんにのみ依拠するという事実から生じるように思えた。まったくのところ、愛しないものの為には決して争いも起こるまい。それが滅びたからとて悲哀も湧くまいし、他人に所有されたからとて嫉妬も起こるまいし、なんらの怖れ、なんらの憎しみ、その他一言で言えばなんらの心の動揺も生じないであろう。実にこれらのすべては、我々がこれまで話してきたような一切の可滅的事物を愛する時に現れるのである。


<10>しかるに永遠無限のものに対する愛は純な喜びをもって心をはぐくむ。そしてそれは一切の悲しみから離絶している。これこそ極めて望ましきものでありかつ、すべての力をあげて求めるべきものではないか。しかし私はただ真剣に思量し得る限りという言葉を理由なしに用いたりしなかった。何故なら、上述のことを精神ではこのように明瞭に知覚しながらも、私はしかし所有欲・官能欲及び名誉欲からその故に全然抜け切るというわけにはゆかなかったからである。



続く・・・こういう直訳調の文体は、即ちワリと好きこれである。