賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

知性改善論(1節~5節)

「知性の改善に関する、並びに知性が事物の真の認識に導かれるための最善の道に関する論文」(バルーフ・デ・スピノザ ←正式名称。長っ。


<1>日常生活において、しばしば遭遇するもののすべてが虚ろで空しいことを経験によって教えられ、また私にとって怖れの原因であり、対象であったもののすべてが、それ自体には善でも悪でもなく、ただそれによって心が動かされた限りにおいてのみ、そうなのであることを悟った時、私はついにこう決心した。すなわち、人の関与し得る真の善で、他の一切を捨てて、ただそれからのみ、心が感動させられるような或るものが存在するかどうか、いやむしろ、ひとたびそれを発見し、獲得した上は、不断に最高の喜びを永遠に享有し得るような或るものが存在するかどうかを探究しようと。


<2>私はついに決心したという。なぜならば、一見したところ、現在不確実な物のために確実な物を放棄しようとするのは軽はずみに思えたからだ。すなわち、私といえども勿論、名誉や富から諸々の利益が得られることを知っていたし、またもし、私が他の新しい物のために真剣に努力するとなると、それらの利益を求めることから、必ず遠ざからねばならないことをも知っていた。それでその場合、もし最高の幸福がそれらのものの中に含まれているとしたら、私はその幸福を欠くに至るべきことが明らかである。だがもし、実はそれらのものの中に含まれてはいないのに、ただそれらのためにばかり努力したとしたら、私はやはり最高の幸福を欠くことになる。


<3>ゆえに私は、私の生活の秩序と日常のやり方とを変えることなしに新しい計画を遂げることが、あるいは少なくともそれに関して確かな見込みをつけることが、もしや可能ではあるまいかと、心ひそかに思いめぐらしてみた。しかし、しばしばの試みにもかかわらず、それは無駄であった。確かに、この世で最も多く遭遇するもので、人々が最高の善と評価している――と彼らの行動から推察される――ところのものを我々は次の三つに、すなわち富・名誉・快楽に還元し得るが、この三つから我々の精神は他のなんらかの善について、思惟することが少しも出来ぬまでに惑い乱されるからである。


<4>まず快楽に関して言えば、心はその虜となって、あたかもそれが安住すべき善事であるかのごとく思い、そのため他の善について思惟することを大いに阻害される。一方その享楽の後には深い悲哀が続き、それがたとえ精神の働きを止めないまでも、なおこれを混乱させ、鈍麻にするのである。名誉や富を追求することによっても、やはり少なからず精神は惑い乱される、特に富がそれ自らのゆえにのみ、求められる時には。なぜなら、この場合には、それが最高の善とみなされているからである。


<5>しかし、名誉によってなお一層多く、精神は惑い乱される。すなわち名誉は常にそれ自体で善と思われ、一切の行いの向けられる究極目的とみなされるからである。それからこの二者(名誉と富)にあっては、快楽におけるように後悔がともなわない。反対に 我々が二者のいずれかを所有すればするほど、我々の喜びは増してくる。その結果、我々は次第次第にこれを殖やすように駆られる。しかしもし、なんらかの場合、我々の希望が裏切られるや、深い悲哀が生ずるのである。最後にまた名誉は、これを得るため必然的に我々の生活を人々の常識(captus)に適合させねばならぬから、すなわち、通常人々の避けるものを避け、通常人々の求めるものを求めなければならぬから、(最高の善の思案に)大きな障碍となるのである。



続く・・・あれっ、意外と大変かも。