大旱の雲霓を望むがごとし
17巻のコレとか、27巻での華佗のこの言葉も、「孟子」から来ているそうな。「賊仁者謂之賊、賊義者謂之残。残賊之人、謂之一夫。聞誅一夫紂矣、未聞弑君也。」。孟子の革命肯定論ということで、名高いようなのですが、勿論、ワタクシ、全然知りませんでした。論語だけでなく、孟子も読まないとなあ。
酒見賢一の「陋巷に在り」という小説の最後の方で、作者がこんな風な述懐をしてたのが印象深かったです。
孔子の弟子たちの中で、他の目覚ましい業績を残した面々と比べ、ほぼ無為の人材ともいえる顔回が、なぜ後世に「亜聖、復聖」とまで祭り上げられるようになったのか、ずっと不思議であった。だが、こうして10年間、顔回を主人公にした小説(「陋巷に在り」)を書き続けてきた今では、それが謎ではなくなった。今ははっきりとその理由が分かると。
孔子の弟子たちの中で、他の目覚ましい業績を残した面々と比べ、ほぼ無為の人材ともいえる顔回が、なぜ後世に「亜聖、復聖」とまで祭り上げられるようになったのか、ずっと不思議であった。だが、こうして10年間、顔回を主人公にした小説(「陋巷に在り」)を書き続けてきた今では、それが謎ではなくなった。今ははっきりとその理由が分かると。
うろ覚えなのですが、そんな風なコトを、終わり近くで述べていて、そういう自負が、とても好もしく感じました。物語というものは、ここまでいかなきゃ嘘だろう。ここまでいってもらわないと!
これは、歴史小説だからこそ、という部分があるかもしれない。水島新司が、何十年にもわたって「あぶさん」という人物を描き続け、最終回で「あぶさんのすべての謎が分かった」と述懐したとしても、誰も感心しやしない。
それはともかく、「蒼天航路」の作者も、酒見賢一と似たような自負を、曹操その他に対して持っていたはずに違いなく、28巻のあとがきでは、曹操と荀彧の関係についての、正史の言葉に異論を発している。
その結果として生まれた28巻での、曹操と荀彧のやり取りは、「蒼天航路」の中でも白眉の出来であったと考えます。そして29巻での、両者の悲痛な心境も。
その結果として生まれた28巻での、曹操と荀彧のやり取りは、「蒼天航路」の中でも白眉の出来であったと考えます。そして29巻での、両者の悲痛な心境も。
どちらかを選択することなどできない。出来やしない。だが、選ばなければいけない。死ぬほど苦しい。
自分の大切な人が苦しんでいるのに(それも自分のせいで)、自分には何ひとつ、してやれることがない。これも苦しい。
自分の大切な人が苦しんでいるのに(それも自分のせいで)、自分には何ひとつ、してやれることがない。これも苦しい。
あれは、自分なのだ。自分と同じ苦しみの中でもがいているのだ。と、自分の過去を痛恨の思いで振り返り、荀彧の死に直面し、髪の毛が真っ白になった曹操を見て、これが歳を取るということなのかと、自分の未来を戦慄しつつ実感する。「歴史は鏡」とは、よく言ったものだと感心します。