賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

ウツクシ断想

人は誰も花を好む。花を好まない者は人にして人でない。花は天然の言辞(ことば)である。花によりてわれらは天然の心を解することが出来る。そうしてわれら人類も天然の一部分であるから、われらの心も花において顕れる。花は無言の言辞である。天使の国においては多分花をもって思考の交換をなしているであろう。言語は銀であって、沈黙は金であると言えば、花は沈黙の言語、すなわち金の言語であるだろう。(『勝利の生涯』内村鑑三



そう言われれば、今まで花が嫌いだという人は、見たことがない。
拳闘暗黒伝セスタス』という皇帝ネロの時代を舞台にしたマンガに、こんなシーンが載っていて(→)、こんな昔から、人はバラを愛していたのだなあと思うと、気が遠くなってくる。なんと人は変わらないかという思いと、なんと人は変わってしまったのだろうという思い。


「なぜ人間は花を見て美しいと思うのか。なぜ人間は太古から親殺しや子殺しの物語を必要としているのか。そのような謎を考えるためにマンガを描いている」と昔、池袋のジュンク堂に、萩尾望都のこんな言葉が(かなりうろ覚えだが)、マンガとともに展示されているのを見たことがあり、それが、今でもずっと頭に残っている。

花を見て美しいと思う。Miracle Drugのメロディを耳にして美しいと思う。冬目景のマンガを読んで美しいと思う。まったくの自明なことなのであるが、まったくの謎だ。確かに美しい。でも何故?


からくりサーカス」(藤田和日郎)というマンガに、こんなエピソードがあった。
人間に災厄をもたらすフランシーヌ人形を「美しい」と感じてしまった男(シュヴァルツェス・トーア)が、「しろがね」となってフランシーヌ人形と戦うことになったのだが、今となっては、もうフランシーヌ人形を前ほど美しいと思わなくなっていた。
その理由はというと、こんな風に説明している。→(

まったく、マンガからは、今まで、どれだけ大切なことを教えてもらったか、分からないな。
恩返しの意味でも、「からくりサーカス」、最後まで、きちんと読まないとね。



一輪の花の美しさをよくよく感ずるという事は難しい事だ。仮にそれは易しい事だとしても、人間の美しさ、立派さを感ずる事は、易しい事ではありますまい。又、知識がどんなにあっても、優しい感情を持ってない人は、立派な人間だとは言われまい。そして、優しい感情を持つ人とは、物事をよく感ずる心を持っている人ではありませんか。神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。そんな人は、優しい心を持っていない場合が多いものです。そんな人は、美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人ではない。ただ、びくびくしているだけなのです。ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。そして、立派な芸術というものは、正しく、豊かに感ずる事を、人々に何時も教えているものなのです。(『美を求める心』小林秀雄



だから、ワタシにとってマンガは、立派な芸術であったりするというお話。