賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

たまには本の話とか

えっと、今、日本って氷河期?


と、なんだかナウマン象を捕食したくなるくらい、めったやたらと寒い今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。12月は戦後最低の気温だったそうですね。そりゃ風邪引きますよ。


さて、今回は近頃読んで面白かった本のコトとか。最近マンガの話が上手く書けないんです(笑)
それはともかくとして、例によってセスタスの影響で、岩波文庫から出ている、ストニウスという人が書いた「ローマ皇帝伝」(全2巻)を読んでみました。なかなか面白かったんですが、2巻の「アウグストゥス」伝に、こんな文章が載ってたんですよ。

・・・また別の虜の親子二人が助命を乞うと、「どちらかの命を助けてやるから、二人で籤をひくか、じゃんけんをせよ」と命じ、あげくに二人とも死んでいくのを傍観していたと。
つまり父が進んで犠牲となって殺されると、息子も自分から欲して覚悟の死を遂げたのである。 (p105)

むむむ、じゃんけんとな?
ジャンケンって、確か日本のテレビ番組から生まれたんじゃなかったっけ?
と思って、訳注を見てみると、

二人が十以下の数字を言い合って同時に、片手を出し、指を拡げる。両人の指の和を言い当てた方が勝ちとなる。

なあんだ、要は「ちっちーのち」のことか。え? 知らない? こんな遊びですよ。理沙ちゃんみたいに、ご存じない方もいらっしゃるみたいですなあ。
場所によっては、「せっせーのせ」とも呼ばれてるみたいっすね。

10人くらいでこの遊びをやった時は燃えたぜ・・


それはともかく、アウグストゥスって、胸から腹にかけて生まれつきアザが大熊座そっくりに散らばっていたそうです(p177)。大熊座といえば、北斗七星・・・「胸に7つのアザを持つ男」かあ。なんだか強そうですね。


と、アウグストゥス北斗神拳伝承者疑惑をふりまきつつ、次の本についてなんですが、
アーレント=ハイデガー往復書簡」(みすず書房)という本を図書館から借りてきました。
ハイデガーという人の本、なんべん読んでも、よく分からないので、今回は搦め手で、書簡本を読んでみるべえと。

 愛するハンナ!
 きみの最近のことを話してくれないかな。そうすれば休暇の静かな日々、きみとふたりで声なく交わす対話も、ふたたびいっそう歴史的に充実したものになる。
 それから、きみの写真があるだろうか、海辺のは? いとしいきみの姿がまるごとほしい。ぼくの深いところに大切にしまってある、きみの心の羞じらいと気立てのよさとおなじように。
    きみの現在にぼくをつねにいさせてほしい
                        きみの マルティン

どうみてもラブレターです。本当にありがとうございました。

いやいや、オレが読みたかったのは、もっとこう哲学的な話で、なんでこんな、馬に蹴られて死んでしまいそうな恋文を読まにゃならんのかと。まあ、それはそれで面白かったんですが。ハイデガーという人は、いわゆる朴念仁とは正反対の人だったんだなと。


あと、古本屋で購入した、サティシュ・クマールという人の「君あり、故に我あり」という本も、思いのほか面白かったです。
前半の、自伝的内容も大変面白かったのですが、後半のクリシュナムルティー、バートランド・ラッセルマーチン・ルーサー・キングといった平和思想家たちとの会見が、彼らの生き生きとした姿を垣間見られて、興味深く読めました。
とりわけ、「第18章 イスラム、平和の宗教」での、マウラーナー・ワヒドゥディン・カーンというイスラムの思想家との会見が面白かったです。

イスラム教は理論や哲学ではなく、生き方なのだ。どんなときも怒りを避けることによって、我々は神と人々に仕え、心の平和を手に入れることができる。状況が平和的であるときに平和な気持ちでいるだけでは充分ではない。預言者は、どんなときも平和な気持ちでいるようにと我々に教えている。たとえ挑発されたり、誰かが我々を中傷したり、誰かと意見が合わなかったり、我々が間違っていると考える行動を誰かがとったときですら、怒るべきではない。

むむむ、イスラム教の教義って全然知らんけど、もっと戦闘的なんじゃなかったっけ? 著者のサティシュも、「しかし、多くのイスラム教徒はあなたに同意していませんね'」と反論しています。それに対して、

異なった視点や異なった展望、異なった考えや異なった信条、異なった宗教を持つのは人間の性質の一部だ。しかしながら、私はこれらすべての差異は尊重されるべきだと考えている。そして、これらの差異が対立と争いを生むのなら、それが家族の争いであれ、宗教的争いであれ、国内あるいは国際的な争いであれ、その争いは対話と平和的手段によって解決されるべきだ。イスラムとは、『平和に』という意味を持っている。我々にとって、平和こそが至上のものなのだ。誰かに出会ったとき、我々は『平和があなたと共にありますように』とお互いに挨拶する。だから、平和こそがイスラム教の真髄なのだ。

むむむ、共存(co-exist)の精神ですな。さらにはこんなことも。

良きイスラム教徒であるためには、我々は同胞のイスラム教徒だけでなく、ヒンズー教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、その他すべての人々を愛する必要がある。困難なことかもしれないが、そのようなビジョンがなければ宗教になんの意味もない。

そうですとも! いや、ワタシは別にイスラム教徒じゃないんですけど(笑)

タイトルからして推察できるかと思いますが、デカルト的な、冷たい二元論に反対する、昔流行ったニューエイジの思想と共通してるというか、源流みたいな本なのですが、ヨーロッパ人が書くと、果てしなく胡散臭く思われる反近代的反科学的反合理的反デカルト主義も、ジャイナ教の修業者だったインド人が話すと、そういういかがわしさは、あんまり感じられなかったなと。
この人の自伝「終わりなき旅(Path without Destination)」も読んでみたくなりましたがが、どうやら翻訳されてないっぽい。残念。


最後に、これまた講談社学術文庫から出てる、エセル・ハワードという人が書いた「明治日本見聞録」という本も面白かったです。
副題が『英国家庭教師婦人の回想』とあり、元薩摩藩主の島津家に招かれた著者が、明治34年から7年間にわたって家庭教師をつとめた時の回想記録です。これは面白いですよ。文化の違いというのが、はっきり分かりますね。
なにはともあれ、「エマ」の連載が終わったら、森薫にこの本をマンガ化してもらいたいですね(笑)

私には最初、子供たちがひどく内股に歩くのが不可解だった。その時は知らなかったのだが、日本の貴族社会での古くさい行儀作法では、内股のほうが行儀よいとされていたのである。最初のうちは、子供たちにこの癖をやめさせようとする努力で、他の仕事よりも何にも増して疲れ果ててしまった。しかし、他のことと同様、まもなく彼らは躾にすばらしく早く順応するようになった。何分おきかに絶えず、「足をもっと開いて」というのが、私の口癖になってしまったので、大変に疲れてぼんやりしていたある日のこと、われわれの訪問客であったドイツ大使アルコ・ヴァレー伯爵が、何かの拍子で足を内股にして腰掛けているのを見て、ついうっかりと「足をもっと開いて」といってしまったほどであった。(41p)

いやいや、これは是非森薫に描いてもらわないと困りますよ。読みてえー!
しかし、最近は本当に小説読まなくなったなあ。小説読むより、伝記ばっかり読んでるよ。