賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

ひらがなっていいな

えー基本賽の目は漢字が大好きな人間でございまして、本当はこのブログも漢字だらけの記事を書きたいくらいなんですが、悲しいかな致命的に語彙が乏しいので叶わぬ夢なのです。なんもかんも高校の国語の教科書に載ってた山月記中島敦)のせい。

そんなワタシですが、近頃 「たどたどしく声に出して読む歎異抄」(伊藤比呂美)という本を読み、ひらがなの底力みたいなものに今更ながら驚嘆してしまいました。
本のタイトル通り、歎異抄を口語訳したものですが、ひらがな主体で訳された言葉が、なんというんでしょうか、石のような物質性をもって心にぶつかってくる感じです。ひらがな凄いわー。

詩人だからこそ為せる業なのでしょうが、特に和讃の訳(うみのうた)が素晴らしかったです。原文の和讃は難しい漢字ばかりで歯が立たないのですが(本当に漢字好きなの?)、うん、これなら分かるぞ!

ということで、そこだけちょっと引用したいと思います。

和讃 うみのうた

  十八
ありとあらゆる
生きものたちのために
仏さまがたのめぐみを
あつめてくださる
アミダさまのお誓いは
広くて大きな心の海よ
たよりなさい

  一二五
生死(しょうじ)の海は
苦しみだらけの海
岸にたどりつけない海
わたしたちは
ずっとおぼれておりました
アミダさまのお誓いのふねだけが
かならず岸にわたしてくださいます

  一三一
アミダさまのお誓いに
であうことができました
わたしたちはむだには生きません
ゆたかな海には
めぐみがみちみち
迷いだらけの濁り水も
なにへだてなく流れ入る

  一五九
「なむあみだぶつ」は
不思議な海水
悪人たちの死骸は
ただよいながら
一つのところにはとどまりません
さまざまな悪が何万と
川のように流れこんでいきますと
めぐみの潮が
たったひとつの水にしてくれます

  一七七
濁った世界で生きるとは
悪を起こして罪を造るということ
吹きすさぶ風や
降りしだく雨の
ただなかで生きるということ
仏さまがたがあわれんで
念仏をすすめてくださいます
浄土にかえそうとしてくださいます

  二三七
なむあみだぶつととなえれば
海水のように
善がなみなみ
おしよせてきます
きよらかな善を
この身にいただきました
今はみんなにわけあたえます

  二七七
アミダの誓いは
ひろくておおきな海のよう
ちっぽけでつまらないわたしどもの
善い心や悪い心
そのなかに流れこめば
そこで
大きな慈悲の心になる

  二九〇
アミダさま
観音ボサツさま
勢至ボサツさま
お誓いを
ふねのようにうかばせて
生死の海にこぎい出し
おぼれる人々を呼びあつめ
ふねにのせてくださいます

南無阿弥陀仏」と「なむあみだぶつ」はこんなに違うのだということに改めて驚いてしまうのですが、ひらがなにすると印象がだいぶ変わりますね。うーん平仮名を発明したご先祖様は偉いなあ。