賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

愛と正義をなせ(「スピノザ『神学政治論』を読む」より)

 あらためて、われわれの問いを定式化してみよう。 
 スピノザの「神即自然」は啓示宗教の語る神ではない。その哲学者スピノザが、「無知な」預言者の「真理ならざる」啓示の教えを、「心的確実性」において、「真なるもの」として受け入れる、とは、いったいどういうことか?
  (中略)
 「真なるもの」として受け入れるとスピノザが言うのは、それゆえ<言われていること>の真理性ではない。とすれば何か。われわれはすでにそのヒントを考察から得ている。それは集団的な言語実践態における<言う>ことの正しさである。

 スピノザは、証明不可能な教義を受け入れるのは「盲目的な理性を欠く」行為ではないかという疑問に答えて、こう言っている。たしかに証明不可能である。だがそれにもかかわらず、「われわれは啓示されたこの基礎をいま、少なくとも心的確信において受け入れるために、自分自身の判断力を用いることができる」。いかなる判断か。

 それは預言の倫理的な正しさに関して預言者たちの得た、その確信についての、われわれの側からする判断である。預言者たちは「愛と正義とを何ものにもまして薦め、これ以外の何も意図していないことをわれわれは見ている」。

そこから「彼らは人々が服従と信仰とによって幸せになるということを、欺瞞によってではなく、本心から教えたのだとわれわれは結論する」。

それに彼らは「そうした教えをしるしによって確信した以上、ただわけもなしにそんなことを言ったのではないし、預言しているときに気が狂っていたわけでもないとわれわれは納得する」。

要するに、かく<言う>ことが倫理的に正しいと預言者自らが確信せざるを得なかった、その同じ正しさを、同じ確信の程度において受け入れるとスピノザは言っているのである。

実際、その正しさは、<経験の言語ゲーム>における集団的な使用そのものによって、あらゆる改竄に抗する力を持ってきた。あらためて引用する。

 聖書そのものからわれわれは、何の困難も曖昧さもなしにその主要教義を把握できる。すなわち、神を何ものにもまして愛し、隣人を自己自身のごとく愛するということ、これである。そしてこれは改竄の結果でもありえないし、また性急な・誤りがちな筆の所産でもありえない。じっさいもし、聖書がひとたびこれと違ったことを教えたとしたら、他のすべての事柄も必ず違ったふうに教えていたはずである。なぜなら、これこそ宗教全体の基礎であり、これを取り去れば全機構が一瞬にして崩壊するからである。だからこれを教えぬ聖書があるとすれば、それはわれわれがここで語っている聖書とは同一のものでなくて全く別な書なのである。ゆえに、聖書が常にこのことを教えたこと、したがってまたここには意味を変質させうるようないかなる誤謬も忍び込まなかったこと――そうした誤謬が入り込めば誰からもすぐに気づかれたであろうから――さらにまたなんぴともこの教えを曲げることができなかったこと――そうした悪意図はたちどころに人々の眼に明らかになったであろうから――、そうしたことが揺るがぬものとして残る。

「神を何ものにもまして愛し、隣人を自己自身のごとく愛する」。
かく<言う>ことの抗しがたい正しさ。伝承と解釈・編纂の長い歴史のなかで、その集団的使用が意味の改竄を許さなかった<言う>ことの正しさ。
まさにその正しさを「真なるもの」として「健全な判断によって受け入れる」。これがスピノザ預言論のロジックに他ならない。

 それゆえ、預言者たちの<言う>ことの正しさについて、スピノザは心から受け入れる。理性なしに盲目的にそうするのではない。
スピノザは哲学者として、その正しさ、すなわち正義と愛を薦める正しさが理性にかなっていることを知っている。「彼らが教えた道徳的事柄で理性にまったく一致しないようなものは何もない」。

たしかに『エチカ』の賢者も、自らの「真の倫理学」に基づいて同じ正しさを、今度は「数学的確信」でもって把握するだろう。しかしだからといって、哲学者の理性的確信が預言の正しさを証明したり、根拠づけたりするのではないし、またそうすべきではない。

その根拠や証明は、預言者の預言的確実性を支えているものとは別だからである。スピノザの言う「一致」は、われわれがかつて別の機会に論じたように、預言と哲学的理性という互いに見知らぬ者どうしの遭遇、妥協も照応関係もない外的な一致にすぎない。
  (中略)
 こうして哲学者は、啓示が語る救いの真偽については一切口を出さず、しかも「心的確実性」においてそれを「真なるもの」として受け入れる。
それは、多くの論者たちが想像したような用心や策略からではないし、またキリスト教ヒューマニズムからでもない。

「真なるもの」を根拠付けなしに循環させる「群集」の言語的実践の実定性が(言い換えればスピノザの絶対的な自然としての神の力能が)、そうするように命じ、義務づけるのである。

このような受諾によって、哲学者は自らの真理への愛を放棄しないで<敬虔の言語ゲーム>のなかに身を置き入れるだろう。そこは理性の教えと預言者の教えが、<言う>こと(愛と正義をなせ)の正しさにおいて一致する場、<言う>ことの「真なるもの」が証明抜きで一致し続ける場である。

 スピノザに関する伝記的資料のひとつは、こうした哲学者の一面を伝えている。いま一度引用しておこう。

 家の主婦にかつて、彼女が自分の宗教にそのまま留まっていても、救われると思うかと尋ねられたとき、彼はこう答えた。「あなたの宗教は立派です。あなたは静かに信心深い生活に専念なさりさえすれば、救われるために何もほかの宗教を求めるには及びません」。



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第二部第2章「預言の確実性をめぐって」からの引用です。
論証部分を大分端折ってますので、上記の本を読むことをお薦めします(笑)