賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

「神やぶれたまはず」(長谷川三千子)を読む

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昭和二十年八月十五日に何が起こったのかを考察する本。大変面白かった。

 いはゆる“戦後”と呼ばれるわが国の歴史の数十年間は、厳密に言へば、歴史でもなく、時間でもない。昭和二十年八月十五日、われわれの時間は或る種の麻痺状態に陥つて、そのまま歩みを止めてゐる。六十八年たつて、いまだに“戦後”が終わらないのもそれ故である。
しかし、その麻痺状態は、それ自体が一つの手がかりである。そこに何か大事なものがあり、それを忘れ去つてはならないことを、人々が無意識のうちに察知してゐるからこそ、日本人の精神史は、そこで凍結し、歩みを止めてゐるのである。

折口信夫太宰治吉本隆明三島由紀夫など著名な人物の文学作品から、あの日なにが起こったのかをいつもの快速調で追求されていくのですが、第九章の「イサク奉献」(旧約聖書『創世記』)がことに面白かったです。

こちらの方のブログに、この本の基となった論文の最後の部分が掲載されていて、コンパクトに趣旨がまとめられてますね。


  神が自らの命を投げ出す、などといふ言ひ方は奇妙なものにひびくかも知れない。
しかし、たとへばキリスト教といふ宗教が、さきほど述べたやうな「裏返しの御利益宗教」の側面しかもつてゐなかつたとしたら(単に多くの人をひきつけるだけでなしに)、あれほど深く人の心を揺り動かす宗教とはなりえなかつたであろう。
神がわが子を人の世につかはして「人を深く愛する」が故にその命を人間のために捨てたといふこと―この教義ぬきには、キリスト教キリスト教でありえず、それが深く人々の心をとらへるといふこともありえなかつたに違いない。


「そして、まさにその一点において(来たるべき)日本の神学とキリスト教とは、一瞬、交差し合ふのである」と続く言葉に、安藤礼二的にゾクゾクしてしまうのですが、次の十章の『昭和天皇御製「身はいかなろうとも」に載っていた終戦直後に作られたという四首の御製はこの本で初めて知りました。


爆撃にたおれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

このまま戦争を本土で続ければ日本は亡びる。日本国民は大勢死ぬ。日本国民を救い国を滅亡から救い、しかも世界の平和を、日本の平和を回復するには、ここで戦争を終結する他はないと思う。自分はどうなっても構わない。(265p)

ポツダム宣言を受諾するかどうかの御前会議でのお言葉がそのまま歌になったような気味合いですが、あの時確かに日本は滅んでいたかもしれないのだ、という実感を持つのはなかなかに難しいです。

でも、それが分からなければ昭和二十年八月十五日とはなんであったかを理解できないだろう、それは引いては戦後を理解することができないだろう、というのはおぼろげながら分かります。

おれたちは滅びてゆくのかもしれない」という認識が日本でもっとも共有されたあの時代をヘンなイデオロギーは抜きにしてもっとダイヴしていかないとなあと改めて思わせる本でした。