賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

「書物としての新約聖書」(田川建三)を読んだ

爽「私は弱い時にこそ強い! って誰かが言ってたから大丈夫だ!」
由暉子「誰かじゃなくてパウロです。コリントの信徒への手紙2」
(「咲」114局「調整」より)


と、なにやら咲世界でもキリスト教がらみのネタが入ってきそうな気配を感じるので、前々から読もう読もうと思いつつも放ったらかしてきたこの本を手に取ってみましたよ。さすがに700ページもの分量は大変だったじぇ~。


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新約聖書がすべてギリシャ語で書かれているというのも、この本を読んで初めて知ったくらい、無知蒙昧なワタシですが、ずっと以前から気になっていた「そもそもイエスは何語で話していたの?」という素朴な疑問に充分答えてくれた本でした。

当時のパレスチナでは、アラム語が日常語だったそうですが、同時に宗教的文章語としてヘブライ語も使われていたそうで、これがなかなか面白いです。
たとえば、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給いし」という言葉をイエスアラム語で言ったのか、へブライ語で言ったのかと言いますと、


・・・以上からわかるように、イエス当時のパレスチナではアラム語を日常言語としていた。イエスも最初期のキリスト教徒もアラム語を話していたのである。マルコ福音書にはその状態が正直に反映している。しかし、マタイ福音書の著者となると、かなり伝統的ユダヤ教知識人の意識を引きずっているから、加えて彼自身かなりヘブライ語に精通していたようであるから、文章を書くのにアラム語を用いるのはいかにもやぼったく思えたのだろう。ましてや聖書の引用である。詩編の有名なせりふをマルコのようにアラム語で記すわけにはいかない。というので、彼はこれを「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」に変えてしまった(二七・四六)。「我が神、我が神」をアラム語で言えば「エロイ・エロイ」で、ヘブライ語で書けば「エリ・エリ」になるというわけだ。(213p)



面白い! 日常語の方がエロイ・エロイでスケベなんですね(違)
福音書の作者によって言葉の取り扱いが変わってきて、さらにはギリシャ語についても上手い人と下手な人がいたりして、その結果書き方が相当変わってしまう。面白いなあ。

この本で描かれている最初期のキリスト教徒たち、ヘレニストと呼ばれるギリシャ語を話すユダヤ人(新約聖書を知らないキリスト教徒)たちの活動など凄く面白いのですが、それはまあこの本を読んでもらうとして(初期キリスト教が都市型宗教(商業者中心の宗教)だというのは目からウロコでした)、第1章補遺1に収められている簡単な紹介文は、大変コンパクトで分かりやすいので、福音書だけでも引用してみたいなと。最低限これだけ知っとけば大丈夫!(多分)



マタイによる福音書
 マルコ福音書と通称Q資料と呼ばれる今日では失われたイエス語録資料を繋ぎ合せ、それに独自資料を加えて編集したもの。著者はギリシャ語を第一言語とするユダヤキリスト教徒。むろん使徒マタイではありえない。非ユダヤキリスト教徒とする学説もドイツの学者などの一部では主張されているが、とても無理。執筆年代はマルコより後で、エルサレム崩壊を知っているのだから、七〇年より後。二世紀はじめごろの普及状態を考えれば、どんなに遅くても九〇年。執筆場所は不明。シリアのどこか(アンティオキア)という説はまったくの想像にすぎないが、当たらずとも遠からずか。

マルコによる福音書
 最も古い福音書。伝統的には使徒行伝一五・三七ほかに出て来るマルコが著者とされてきた。近代聖書学においてはそれを疑う学説が強いが、積極的に疑う根拠はない。しかし、ペテロの弟子だったというのは、あてにならない。少なくとも福音書の中身を読む限り、とてもその可能性はない。ギリシャ語が下手なこと、内容等々からして、パレスチナ出身のユダヤキリスト教徒であるのは確か。学界では非ユダヤキリスト教徒とする説もはやってるが、根拠はない。執筆年代、場所は不明。しかし、エルサレム崩壊を知らないのは確実だから、七〇年以前であるのは確か。五〇年代か六〇年代である。七〇年代以降に書かれたなどとする「学」説は、何でもいいから想像をたくましうしようという以外の意味はない。

 マタイと同様、マルコとQ資料、それに独自の資料を組み合わせて書かれた。やはり七〇年から九〇年の間。明瞭にパレスチナの事情を知らず、ユダヤ教についても、マタイやパウロのような内在的知識を持っていない。ギリシャ語を第一言語とする。従って、どこかのヘレニズム都市のギリシャ系文化人でキリスト教徒になった人物。伝統的にはパウロが「同労者」と呼んでいるルカ(ピレモン二四節)が著者であるとされてきた。私もそうだと思う。近ごろドイツやアメリカなどで、この著者はパウロを知らない人物である、という学説がはやっているが、かなり無理がある。使徒行伝の著者と同一人物。

 正体不明の著作。おそらく、もともとの著者の作品を、その流れに属する他の人物(弟子?)が編集した、という学説が正しいだろう。原作はもしかすると未完の作品。かなり独得で、正統派の流れとは異なる思想を展開している。グノーシス思想に相当近い。それに対し、編集者はこれに正統派教会の視点から手を加えた。執筆年代、著者、著作の場所等、一切不明。しかし、内容からして、マタイ、ルカとほぼ同時期と考えるのが妥当だろう。ただし、残っている写本からして遅くとも九〇年代。

使徒行伝
 これを近ごろ「使徒言行録」などと呼ぶ人がいるが、伝統的な書物の表題(Acta)をそのように変えてもらっては困る。ルカ福音書の著者が、その第二巻として書いた。最初期のキリスト教の歴史の貴重な資料。執筆年代はルカ福音書の後ほとんど時がたってないだろう。

ヨハネ黙示録
 著者は自分でヨハネと称しているが、単に「僕(しもべ)ヨハネ」としているだけだから、著者自身のつもりとしては、「使徒ヨハネが書いたという体裁の偽作文書ではない。むしろ、他のヨハネとは異なる、ほかでは知られていないヨハネという名前の人物の著作。比較的最近まで、ヨハネの名前のついた福音書と黙示録を一括してヨハネ文書と呼び、同じ流れに属する文書とみなす傾向があった。しかし、福音書と書簡は明瞭に同じ流れだが、黙示録はそれらとはまったく関係がない。ギリシャ語が不得意なことからして、ギリシャ語を第一言語としないユダヤキリスト教徒の作品。もっとも、だからとてパレスチナユダヤ人とは言えない。多分小アジアキリスト教会の人。黙示文学の体裁をとりつつ、ローマ帝国支配に対して強烈な批判を展開している。執筆年代は、通説では、ドミニティアヌス帝の弾圧の時で、九〇年代半ば。しかしこの通説は必ずしも説得力はない。もっとも通説に代る有力な説も存在しない。



勢いあまって黙示録も引用してしまいましたが、大変分かりやすいです。ヨハネによる福音書の紹介がいきなり「正体不明の著作」で笑ってしまうにゃー。そんなの正典にするなよ~。
ちなみに冒頭の由暉子さんのセリフにある「コリントの信徒への手紙2」はこんな感じです。


コリントス人への第二の手紙
 第三回伝道旅行の最中に書かれた。しかし、もともとは違う二つ(以上)の手紙が、かなり早い段階で一つの手紙にまとめられたと言われる(過失により頁が混乱して一緒になった? あるいは意図的に混ぜ合わせて編集した?)。少なくとも二・一二―七・四はその前後とは別の手紙である(多分第一と第二の間に書かれた「中間書簡」)。もしかすると九章以下も別の手紙。第二書簡(一・一―二・一一及び七・五以下)は第一書簡よりも一年ぐらい後に書かれた(?)。つまり五五ないし五六年。マケドニア滞在中。


うむ、なんかこう編纂しまくりだな!
パウロ書簡とか今まで全然読んだことなかったので、「弱い時こそ強い」って言葉も、咲を読んで初めて知ったのですが、思えば岩波文庫から出ている「内村鑑三所感集」の最後は、まさにパウロのこの言葉で締めくくられているのですねえ。


最善の最後
信者の生涯は、始めは悪くして終りは善くある、終わりに近づくほど、ますます善くある。生命の夕暮になればなるほど、かれはなにものかかれの心の奥深きところに結実しつつあるを感ずる。人あり、かれにその生涯の中に最も愉快なりし時はいつか? と聞くならば、かれは常に「今なり」と答うるのである。しかして彼の最後(ラースト)が最善(ベスト)である、あたかも年末のクリスマスがかれにとり最も喜ばしきときであるように、かれの生涯の終りがかれにとり最も感謝多き時である。しかしてかれが特別に感謝して止まざることは、かれの生涯の計画がことごとく失敗であって、かれの計画に反せし神の御計画がかれの身において成ったことである。「このゆえにわれ懦弱(よわき)と凌辱(はずかしめ)と空乏(ともしき)と迫害(せめ)と患難(なやみ)に会うを楽しみとせり」。信者にはこんな感謝があるのである。


カッコイイなあ。明治期のこういった言葉遣いは素敵滅法ですな!
この本もカッチョイイ言葉が出まくりなので、いつかまとめてみたいものです。まあ当分無理(笑)