賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

無題2



死の直覚的な確実性とは何だろうか。死はおよそ経験知とは全然別な仕方で直接的に人間によって知られているものである。
われわれは自分が死ぬときになって初めて死を知るのではない。死は生の終点で経験的に知られるのではなく、生の一瞬一瞬に、もとから知られているのである。
現実の死は人間が平生からもともと持っている死のこの直覚知を確認する仕方として成り立つにすぎない。だからもし人間にこの直接的な死の確実性が成り立っていないなら、この人間はついに死を知らずに死ぬであろう。
ついでに言うと、死のこの直覚的確実性の意識は、死を迎える人間の感情とは関係がない。例えば、死期の近い病人のもつ死の予感、恐怖、不安、もしくは期待とかいうものではない。
それはかかる感情や気分よりも一層深い次元に存するものであり、それ自身としては何ら感情をともなわない。
死が恐怖や不安や動転で迎えられるか、愛や渇望や静かな期待で迎えられるかは、個人の生活体験の条件に依存する偶然的な事柄に過ぎない。
死の直覚的確実性は人間存在の本質に属する根源的な自覚である。人間は本来、死をそういう直接的意識において持っているのである。

§§§

現代人において根本的に隠蔽されているところのものがこの根源的な直接意識である。
死が生の中に住む本来的な場所が、異常な抑圧によって閉ざされ、死は人間の外に追われている。それゆえ、今や死はわれわれに対して外からやって来るのである。
死は内面性をもたぬたんなる外部となった。死は今日では一切のシンボルをもたない。それは松明を沈める若者でも運命でも骸骨でもなくなった。
死は生の意味の充実者としてくるのではなく、破壊者、すべてを終わりにするカタストローフとしてくるだけである。死が不在である生を呑気に生きてきた現代人は、ある日突然もう生きる日が無くなっているのに驚く。
死は人間をいきなり奪い去る姿なき暴力、野蛮性である。現代人はまるで壁に頭をぶっつけるように、見えない死に衝突するだけである。
それは決して彼自身の死ではないのである。リルケはこのことを『祈祷詩集』(一九〇三年)の中に謳っている。

 主よ、それぞれの人間に彼自身の
 死をあたえ給え。
 愛と意味と苦難とに生きた彼の
 あの生から死(Sterben)は
 やって来なくてはならぬのだ。

 なぜなら、われらは木の葉と表皮
 にすぎぬ。
 各自が自らの内部にもつ大いなる死が
 大事な核なのだ。

 我らの死(unser Tod)が実らぬから、
 それが死をわれらになじみのない
 重いものにするのである。
 われらは成熟しない。それゆえ死は、
 ただの終わりでしかない。
 一斉にわれらを吹きとばす
 一陣の野分なのだ。

死は存在しないということは、今日の人間を支配している最大のイリュージョンである。それはどこまでつづいているか見通せないような仕方で、現代の世界を蔽っている。しかしながら、このイリュージョンに挑戦して、それから人間を解放することが、真の思想に課せられた根本の責務ではないだろうか。



以上終わり。単にリルケの詩を引用したかっただけの所存~。