賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

無題

「現代西ヨーロッパ人」と呼ばれる人間類型を作っている生体験のエレメントは、仕事(Arbeit)と金儲け(Erwerbe)である。
この人間類型は一切の生体験をこの二つのエレメントにおいて受けとる。
十三世紀の末以来姿をあらわし、高度資本主義社会の中に明瞭な形をとるに至ったのは、このような新しい人間類型なのである。
彼においては、仕事と金を儲けることとは、もはや生活のための手段というにとどまらず、それ自身が自己目的となっているのである。
それらは無限な衝動の形をとって現れている。こうして目的となり無限な衝動となった仕事と金儲けとが、現代人をして今や死に対して新たな全体的態度をとらしめることになる。
すなわち、死の観念の抑圧が始まるのである。

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仕事のための仕事、儲けのための儲けという限りない衝動の渦中への転落は、パスカルが言ったようにいかがわしい現代人の新薬である。
それは現代人の前に、死なぞまったく存在しない不思議な世界の展望を開いて見せる。
世界はもう愛や観照の対象ではない。それは計量され加工さるべき材料、そして根本的には挑戦と攻撃の対象である。
しかもこの世界は無限に進歩する。この世界の中で人間は限りなく忙しくなる。しかしそれは彼の仕事に時間が限られているからではない。
時間はいくらでもある。彼は死なないのだからである。彼のこの比類なき多忙には、目的も意義もない。
多忙はむしろ現代人の生き甲斐のなさ、存在の深い無意味さの反射である。
それは見せかけだけの多忙である。見せかけの意味として無限の仕事、仕事のための仕事が生まれ、新式の永生へのスローガンとして「進歩」がかかげられる。
それは目的なき進歩であり、ゾンバルトの言ったように、進歩それ自身がそこでは進歩の意味なのである。

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このような人間はもはや古代や中世の人間と同じようには死を怖れない。
もちろん彼は死を絶えず計算に入れているし、何度も死を確認するであろう。それにもかかわらず死は彼に対して直観的に(anschaulich)は存在しない。
彼は決して死に直面して生きていないのである。死は火災や水害のように、彼の判断の対象ではあるが、直覚の事実ではない。
しかるに死とは本当は人間に直観的な確実性という仕方で与えられているものなのである。
死を直覚的に知っているのが、人間の生である。
シェーラーは直覚的な死の確実性(intuitive Todesgewissheit)の体験というものが、人間存在にとって本来的で正常な体験であることを強調する。
そして「現代西ヨーロッパ人」とは、この正常な死の直観知を仕事と儲けとの衝動によって抑圧しているごとき異常な人間類型に他ならない。

大峯顕「生死の視角」より。読みやすいよう改行など施してます


今年になって経済関係の本だのなんだの読んではいるんですが、窮屈な感じがして息が詰まる。
これはなんだろうなあと思うに、そこで描かれるあるべき社会像と人間像とがどうにも好きになれないからかもしれない。上記の引用からいえば「現代西ヨーロッパ人」ですね。
自分も明らかにその人間類型に属する人間なのですが、いまだにそこに違和感を覚え続けています。それが古い日本人的情緒に基づくものなのかというと微妙なのですが。
「明るい豊かな社会」は当然目指すべき目標なのですが、それが仕事と金儲けを前提にしたものであるならば、それはちょっと待ったなんですが、だがしかし代案がないというのが困りもの。う~ん困った困った。