賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

子供の力(後半)

「まあ、かわいい子!」と、一人の女が言った。
「誰を探してるの?」と、もう一人の女が子供のほうへかがみ込みながら言った。
「父ちゃんだよ! 父ちゃんのところへ行きたい!」と子供はわめいた。
「坊や、お年はいくつ?」
「父ちゃんをどうするんだい?」と少年は言った。
「坊や、うちへお帰り、母ちゃんとこへお帰り」と一人の男が少年に向かって言った。

 捕われた男にももう子どもの声が聞こえ、子供に話しかけている人たちの声も聞こえた。彼の声はますます暗くなった。
「その子には母親はいないんだ!」と彼は、自分の子供に母ちゃんとこへお帰りと言ってる男に向かって叫んだ。
 少年は群衆のあいだをくぐり抜けくぐり抜け、とうとう父親のそばまでやって来て、その手にぶらさがった。
 群衆のあいだには依然として、「殺せ! 縛り首にしろ! 撃ち殺せ!」という叫び声が聞こえていた。

「どうしてお前は家から出てきた?」と父親は少年に向かって言った。
「この人たち、父ちゃんをどうするの?」と少年は言った。
「あのね、お前」と父親が言った。
「なあに?」
「ほら、カチューシャ小母さん知ってるだろう?」
「隣の小母さんね、知ってるよ」
「じゃ、あの小母さんとこに行ってな。父ちゃんも……父ちゃんも行くから」
「父ちゃんも一緒でなきゃいやあ」。こう言って少年は泣きだした。

「どうしてだね?」
「みんなが父ちゃんをいじめるから」
「そんなことはないよ、ほらね、なんにもしないよ」
 捕われた男は子供を手から下ろして群衆を指揮している男に近づいた。
「お願いですが」と彼は言った。「どこで殺されてもいいけれど、この子の目の前ではやめてください」。そう言って少年のほうを指した。「ほんの二分間ばかり縄を解いて、手を握っていてください。私がこの子に、父ちゃんたち散歩をしてるんだ、ほら、この人、父ちゃんのお友達だよ、って言います。そしたらこの子は家へ帰りますから。そのあとで……どこででもいいから殺してください」
 指揮者は同意した。

 捕われた男は再び子供を抱き上げて言った。
「ねえ、お利口だからカチューシャ小母さんとこへお行き」
「父ちゃんは?」
「父ちゃんはほら、ちょっとこのお友達と散歩してくる。だから家へお帰り。父ちゃんもすぐ帰るから。さあさあ、いい子だから」
 少年は父親をじーっと見つめ、首を左右にかしげて考え込むようにした。
「さあお行き、父ちゃんも帰るって言ってるだろう」
「帰ってくる?」
 子供は納得した。一人の女が子供を群衆の外へ連れだした。

 子供の姿が見えなくなったとき、捕われた男は言った。
「さあ、これでいい、殺してください」
 そのとき、突然まったく不思議な、思いがけないことが起きた。ほんのさっきまで残忍無慈悲で憎悪に燃えていた人々に、一斉に同じ気持が生じた。
「ねえ、この人、許してやりましょうよ」
「そうだ、放してやれ!」と、もう一人誰かが言った。「許してやれ!」
「許してやれ、許してやれ!」と群衆が一斉に叫んだ。
 と、さっきまで群衆を憎んでいた傲慢無慈悲な男は、突然わっと泣き出し、両手で顔を覆って、まるで罪を恥じるかのように群衆から走り去ったが、誰一人彼を止めようはしなかった。      (ヴィクトル・ユーゴー作、レフ・トルストイ訳述)

   トルストイ「文読む月日」中巻(ちくま文庫)より