賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

子供の力(前半)

「殺せ!……撃ち殺せ!……いますぐそいつを撃ち殺せ!……やっつけろ!……その人殺しめの咽喉を掻き切ってやれ!……殺せ!……殺せ!……」群衆のなかから一斉にそうした男の声や女の声が聞こえてきた。
 おびただしい数の群衆が、一人の男を縛って通りを引っ立てていった。その背の高い男は身体をしゃんと伸ばし、頭を高く上げて、しっかりした足取りで歩いていた。その美しく男らしい顔には、彼を取りまく人々に対する蔑みと憎しみの感情があった。
 
 その男は、権力に対する民衆の戦争において、権力の側に立って戦っている者の一人だった。今彼は捕えられて、刑場に曳かれてゆくところであった。
(仕方がない! 力がいつもわれわれの側にあるとはかぎらない。仕方がないじゃないか? 今は権力はあいつらにある。死ななきゃならんなら、死ぬだけだ。どうやらそれが俺の運命らしい)。その男はそう考えて肩をすくめ、群衆の叫び声に対して冷然たる笑みを浮かべた。
 
「こいつは巡査だ。ほんの今朝まで、われわれを射撃していたんだ!」という叫び声が群衆のなかに聞こえた。
 だが群衆は立ち止まらないで、彼はさらに先へと曳っぱられていった。昨日、軍隊に殺された人々の死骸が、まだ片づけられずに舗道に転がっているところに来たとき、群衆は激昂した。
「ぐずぐずすることはない! すぐにここで撃ち殺せっ。一体どこまで連れてゆくんだ?」と人々は叫んだ。
 
 捕われた男は眉をひそめ、ますます頭を上げただけだった。彼はどうやら、群衆が自分を憎んでいる以上に群衆を憎んでいるようだった。
「みんな殺すがいいわ! スパイも、王族も、坊主どもも、こんな奴らも! 殺すのよ、今すぐ殺すのよ!」と女たちが金切り声を上げた。
 しかし群衆の指導者たちは、彼を広場まで連れていって、そこで始末することに決めていた。
 
 広場のほど近くで、群衆たちがちょっと静かになったとき、群衆のうしろで子供の泣き声が聞こえた。
「父ちゃーん! 父ちゃーん!」六歳ばかりの男の子が、群衆のあいだをくぐって、捕らわれた男に近づこうとしながら、泣きじゃくって叫んだ。
「父ちゃーん、父ちゃんをどうするんだよ? 待って、待って、ぼくを連れてって、連れてって!……」
 子供が歩いている側の群衆の叫び声がやみ、群衆はまるで力ずくで押し開かれたかのように、子供に道を開けて父親のほうへ近づかせた。