賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

物語への参入(「シュトヘル」4巻感想)

 
 
忘れた頃にやってる作品感想です。はい、今頃の「シュトヘル」4巻の感想ですよ。
シュトヘル」(伊藤悠)の素晴らしさについては以前書いたことがありましたが、今回は3巻以降の物語の構造について感じたことを。ってなんか大袈裟だな。
シュトヘルという物語のクライマックスは、3巻のあの「泣くなユルール・・・ありがとう。お前が大好きだ」でピークを迎えたと思うのですが(これが泣かずにいられるか!)、4巻からはシュトヘルからスドーくんへとバトンタッチされていきます。これはまあ、1巻から充分予想される展開なのですが、なにしろシュトヘルの物語が素晴らし過ぎたので、魅力的だったシュトヘルに代わり、現代ニッポンでのほほんと生きていたスドーくんが主役を張るというのは、いささか役者不足なのではないかと、少しく不安に思ってしまったのは事実です。
 
ですが、このスドーくんという人物の立ち位置を改めて考えてみて、「あ、スドーくんって俺たち(=読者)なんだ」という視点に立って読んでみますと、また異様に面白くなってくるんですよ。はい、今かなり分かりにくいことを言ってます(笑)
 
ええとですね。スドーくんという若者は、いかにも今風の無気力系キャラじゃないですか。現実に対して明確な欲望を持ちえない。現実にリアルを感じるのが希薄なタイプ。非常に現代的でなキャラですね。だからシュトヘルという物語にたちまちのうちに魅入られてゆき、その物語に身を投げ出すことを厭わない。あれ、これってオレじゃね?
 
 物語を読む時、自分もこの物語に参入することができれば、と思う。ただ傍観するだけなんて真っ平だ。自分も、物語の登場人物と一緒に悩みたいのだ、苦しみたいのだ。
シュトヘル」では、そういう読者の願いをスドーくんというキャラを立てることによって充足している・・・と考えるのはただの深読み、という以前に誤読なのですが(笑)、「スドーくん=読者」という概念を持ち込むことによって、ワタシたちは「シュトヘル」という物語に加わることができるのですよ、おお素晴らしい!(笑)
 
関わってくんだ、これからじかに。オレとユルールでじかに」というスドーくんの決意が、傍観者であることをかなぐり捨てた読者の決意と二重写しになって見えてくる。「残念ながらダメ同士だっ。だから恥ずかしいことないよな。ダメ同士ガンバっていこうぜ」というスドーくんの言葉に、身が震えるほど興奮してくるワケですよ。これは燃える。
 
もちろん、今言ってることはワタシの勝手な解釈なのですが、こう解釈することによって「シュトヘル」を単なる歴史マンガ(一筋縄)にするのではなく、現代日本に生きる人間を13世紀のアジア世界に放り込み、あえてメタ展開(二筋縄)にする意義がひとつ生まれるのではないかと思う次第であります。
 
さらに、このメタ展開にはひとつ、面白い仕掛けが施されています。
恐らく、スドーくんはシュトヘルの子孫であり、スズキさんはユルールの子孫で、摩訶不思議な力によってスドーくんはシュトヘルの体に乗り移るのですが、シュトヘルが女性であるのに対し、スドーくんは男性なんですね(逆にユルールは♂でスズキさんは♀)。
男性のマンガ家さんでしたら、普通に性別を一致させていたと思います。ですが伊藤悠さんはあえて性別を逆転させてしまった。そのことによって、ちょっとしたジェンダー・パニックが発生してしまうのですね。これは非常に女性らしい発想だと思います。
 
昔、週刊少年サンデーに「天使な小生意気」(西森博之)という作品が連載されてましたが、あの主人公と同じく「オレは男だ――!」的なシチュエーションが生まれてくるワケです(お嬢ちゃんってオレか?)。
ユルールはまだ子供ですが、シュトヘルに対し明らかに恋愛感情を持っていたと思いますので、それがスドーくんに向けられた時のコトを考えると、なかなかBL的な気持ちになります。いや、それはないか。また4巻の最後の方で、百合的なエピソードが出てきたことは、今後こういったジェンダー・パニック的な展開を予告している・・・というのは、例によっての誤読ですが(笑)、これも楽しみの一つとなっております。いいぞ、もっとやれ。
 
あのヴェロニカとシェキラのお話は悲しかったですね。「テスタロト」(三部敬)という作品でも、キリスト教の暗部である異端審問を扱ったエピソードがあるのですが、あの頃のキリスト教って狂ってるよなあ。好きになれぬ。
 
参考文献というワケではないのですが、モンゴルについてはあんまり知識がないので、朝日文庫の「チンギス・ハーン」(岡田英弘)という本を読んでみたのですが、その中で、テムジンの義理の兄弟にあたるシャーマン(ココチュ・テブ・テンゲリ)が、テムジンに「チンギス・ハーン」という称号とともに、物騒な神託を授けたことが書いてあります。
 
この神託は、チンギス・ハーンを地上の全人類の唯一の君主として指名し、チンギス・ハーンの臣下とならない者は誰でも、天の命令に服従しない者として、破滅をもって罰するという趣旨である。この天命を受けて、チンギス・ハーンとその子孫に率いられたモンゴル人たちは、世界征服の戦争に乗り出したのである。モンゴル人たちは、このチンギス・ハーンに授けられた世界征服の天命を固く信じていた。モンゴル人にとって、無条件で降伏せず、かれらに抵抗する者は、天に逆らう極悪人であり、極悪人を殺し尽くすのは、天に対する神聖なる義務を果たすことだったのである。(215p)
 
 
当時のモンゴル人の残酷さが、この神託を信じることによって生まれたとするならば、まことに反吐が出る神託でありますが、信仰という名の狂信は人類の腫瘍だなと言わざるを得ないです。バカ――!(蒼希狼っぽく)
ちなみに「シュトヘル」に出てくるチンギス・カーンは神託などまるで信じないリアリストとして描かれています。ヤンキーになったユルールみたいでカッコイイな。
 
と、なにはともあれ、なぜチンギス・ハーン西夏の文字を憎むのかが判明し、いよいよ佳境を迎えつつある「シュトヘル」の今後の展開に今後も注目してゆきたいです。そして「今日を生きる者のためでなければ、死屍を越えては往けないのだ」と、3巻で偉そうにシュトヘルに言っていたハラバルが、4巻であっさり今日を奪われてしまった(ツォグ族滅亡)のには驚きました。今日を生きる者を喪ったハラバルの明日はどっちだ!?