賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

「霊獣」(安藤礼二)を読む

安藤礼二という人に興味を持ったので、図書館に行って調べてみました。


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はて、どこかで見たことがあるような・・・?
などと韜晦しても仕方ありませんが、うむ、これは何者かが「読め」と言ってるんだなと(Unknown Callerですね!)、何冊か借りてきました。賽の目は、こういうシンクロニティーを重視するタイプです。
むう、どうやら折口信夫の「死者の書」についての論考らしいですが、この前、2年ぶりに続刊が出た「朝霧の巫女」(宇河弘樹)の巻頭にも折口信夫の文が載ってましたし、これはますます「読め」ということなのだなと。
しかし、豊田徹也の「珈琲時間」もそうなのですが、2年ぶりとか4年ぶりとか、年単位で単行本を出すとか、やめていただけないものかと。特に「朝霧の巫女」は、もうとっくに連載終了してるんですからさあ。
まあ、単行本が出るだけマシという見方もあるのですが、次巻よりいよいよ、やたらと格好良かった楠木正成が出てくるわけでして、7巻は可及的速やかに出していただきたいものであります。

と、何度も繰り返し言ってる愚痴はともかく、面白かったです、「霊獣」。肝心の「死者の書」は未読なのですが(おいおい)、これは折口信夫はちゃんと読まないと!って思いました。


 この般若三蔵が仏教経典の翻訳を開始した時、その最初の協力者になったのがキリスト教ネストリウス派の宣教師でペルシア語に長け、おそらくはシリアの血を引く景浄(アダム)であった。ゴルドン夫人が「物言ふ石、教ふる石」で特記している名前である。空海が「請来目録」を書く手本とした西明寺の円照による「貞元新定釈教目録」に景浄(アダム)というその名と、彌尸訶(メサイア)という単語が書きつけられている。つまり、この時点で密教経典の翻訳空間には、救世主(メシア)という概念が間違いなく登場していたのである。これは容易に弥勒という存在と重なり合うであろう。仮名乞児は、空海の自伝的なドラマ『三教指帰』のなかでは、弥勒の待つ天上世界、兜率天に向かう途上にいた。弥勒と出会い、弥勒とともに苦の「生死海」をそのまま光の楽土へと変革するために。(p107)

げえ、景浄(アダム)! なワケですが、異端とされたキリスト教大乗仏教の進化系ともいえる密教が結びつくヴィジョンに頭がクラクラします。ああ、面白いなあ。
一緒に借りてきた「神々の闘争」では、平田篤胤の『本教外編』がイエズス会マテオ・リッチの著作からの甚大な影響を受けて成立してる話とか載ってたりして(p227)、キリスト教というのは存外に昔から日本に影響を与えているのだなあと、これまでの認識が変わっていきました。

キリスト教を理解できない人は、U2を理解できない」というのは、長らくワタシを苦しめたドグマでしたが(笑)、こういう本を読むと、なんだか救われるような心地になります。この前出た「Under A Blood Red Sky」のリマスター盤DVDを観た時も、ボノさんが叫ぶ「日本のみんなにあいさつして」「やあ、日本のみんな!」にドキリとしたものですが、U2というかボノさんは結構昔から不思議に日本に関心を持ってるのが、なんだか嬉しいです。
それはさておきまして、この本の後記にはフィクションについての興味深い言及があり、引用してみますと、

 事実を解釈し、その解釈から再構築された歴史。繊細で重層的な解釈の網の目から立ち上がってくる物語。それこそがフィクションの名にふさわしい。そこではもはや現実と想像、さらには批評と小説の間に区別をつけることなどできはしないであろう。書くという行為の根源にあるのは、そのようなフィクションへの意志、歴史への意志に他ならない。折口信夫が、釈迢空という名で、短歌、小説、詩というジャンルを横断しながら、実践してきたことである。(p166)

この言葉で、真っ先に思い出すのが、酒見賢一という人の「陋巷に在り」という小説なのですが、最終巻(魯の巻)で、作者自身がこんなことを書いています。

 だが、奇妙な話だが作者はこの長い小説を書いているうちに、ようやく、おぼろげにやっとそれが分かってきた。作者は長い年月を顔回孔子に付き合ってきた。
「何故、顔回だったのか」
 を知るには作者はこの年月はどうしても必要だったのであろう。作家が自ら書く小説に教えられることは多々あるのである。(文庫版p285)

作者は長い年月を顔回孔子に付き合ってきた」という言葉に、「そして読者も!」と付け加えたいところなのですが(笑)、こういう感慨を見ると、物語を書く醍醐味というのが伝わってきます。羨ましい。「作家が自ら書く小説に教えられることは多々あるのである」というのは、恐らく「蒼天航路」(王欣太)の作者さんにも言えることなのだろうなあ。「すでにおらぬ者の言葉がほしいなら、その人間をまるごと自分の中にぶちこみ、数多くの自問をすることだ」ってヤツですね。

「霊獣」の表紙に、杉本博司さんの写真が使われてますが、これは「死者の書 続編」の主人公である空海をイメージして採用されたのでしょう。おお、「空と海」!
奥付を見ると、「霊獣」が発売されたのが2009年5月。日本でNLOTHが発売されたのが2009年2月ですから、ほぼ同時期に発売されたといって良いと思います。

そういう目で見ると、「No Line On The Horizon」という曲が、なにやら異教的な響きをもって聴こえてくるから不思議です(笑) その次の、「Magnificent」も充分異教的ですが。
思えば、ATYCLBからは外れてしまいましたが、すでにその頃から、「Smile」という、実に非西欧的な曲がレコーディングされており、次作のHTDAABにはその面影は見られませんでしたが、NLOTHにおいてついに開花したと言えるのかもしれません。

そうそう、酔月亭さんの記事(「Bono on YouTube」)を拝見して思い出したんですが、「In The Name Of Father」が、こういうタイプの曲の走りだったのでないでしょうか。
ビル・グラハムの「U2全曲解説」(シンコー・ミュージック刊)では、一番最後にこの曲について軽く触れており、なかなか意味深長です。

そして本当に最後に一言、ボノがギャビン・フライデーとシンニード・オコナーと合作したジム・シェルダンの映画“父の祈りを”のサウンドトラックについて述べておきたい。これは、アイルランドの音楽とアジア風のハイテク・ダンスミュージックが融合したようなものであるが、これが果たしてU2の次なるステップの前兆なのだろうか?(p153)

残念ながら、ビル・グラハムはNLOTHを聴くことがかなわなかったのですが(96年5月死去)、もしNLOTH(の、特にFez)を耳にすることができましたら、きっと破顔一笑するのではないでしょうか。「ほらね!」って。

例によってまとまらない話は、これで終わり。