賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

Graceということ(Happy Birthday Bono san!)

もし毎朝わたしが「わたしには勇気があるのだ。わたしはこわくないぞ」と自分にいいきかせるとしたら、わたしは本当に勇気のある人間になれるかもしれないが、その勇気というのは、現在の不完全なこのわたしが勇気という名によって思いえがいているようなもの、それゆえに、わたしの不完全さを越えることがないようなものにすぎぬといってよいであろう。それは同じ次元で変化しているにすぎず、次元そのものがかわってはいないのである。
矛盾があることが、基準になる。暗示によっては、互いに相容れないものを自分の手中にもつことができない。恩寵だけには、それができる。やさしい心の人が、暗示によって勇気のある人間になると、冷酷になる。どうかすると、一種の残忍な楽しみを味わいながら、みずから自分のやさしさを切り捨ててしまうことが多い。恩寵だけが、やさしさを手つかずに残しておいて勇気を与え、また勇気を手つかずに残しておいてやさしさを与えることができる。(シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』)

昔から、箴言集(アフォリズム)という形式に興味があって(どこからでも手軽に読めるという利便性によるものもあるが)、色々そのテの本を読んできたのであるが、上記の文章の引用元もそのひとつ。含蓄のある言葉だなあ。「一種の残忍な楽しみを味わいながら、みずから自分のやさしさを切り捨ててしま」った、勇敢な人たちを、鮮明に思い浮かべることが出来るだけに(「ガンスリンガー・ガール」のフランカとか。フランカの怒り方は優しいよ!)、辛い気持ちになってしまう。すべてのテロリストに恩寵が届けば良いのになあ。


この前、長野に行った折、駅前にあった古本屋さん(平安堂というお店)で、『人生について〈ゲーテの言葉〉』という本を50円で買った
その値段はいかがなものかと思いつつ、帰りの電車でヒマ潰しに読んでいたのだが、「われわれには理解できないことが少なくない/生き続けて行け。きっとわかって来るだろう。」という言葉に、ひどく心を動かされてしまった。

その通りだ。ただ頭の中で考えて続けているだけでは、世の中のコトがさっぱり理解できない。他人という、「次元の違う」存在と接することで、世の中の矛盾を矛盾としてそのまま受け入れるコトが出来る。相変わらず理解はできないけれど、そういうものだと分かることが出来る。これも恩寵といって良いのかな?


岩波文庫から出ている「東洋的な見方」(鈴木大拙)という本の中で、大拙ヴェイユについて触れている一文がある(「詩」の世界を見るべし)。少し長いけど引用してみる。

近ごろ読んだ本で、フランスの若い婦人が書いたものだが、名前の発音をどういうのか、まあ、シモ-ヌ・ヴェイユ(Simone Weil)とでも呼んでおくですね。その人は、ユダヤ人であったが、フランスで生まれて、戦争中ヒットラーユダヤ人狩りに追われて、まあ、転々とあちこち逃げまわってアメリカへ渡って、最後にロンドンで死んだ。死んだ年が三十三か四で、きわめて若い人ですね。
(中略)ところが不思議なことに、わしの本を読んだと書いてあるですね。わしの本の禅に関したものを読んでいると書いてある。ヒットラーの時代というと、二十年ほど前ですね。わしが禅の本を書き始めたのは四、五十年前だが、この人はたぶん二十五、六歳の時に読んだものと思うが、読んだといっても、べつに批評も何もしないで、その中から言葉をいくつか引いて、三、四ヶ所に出ておる。こりゃ不思議だと思うて、それからまた、よくこんなほうまで目を通すということに感心したわけです。
それで、東洋の思想に触れておったということは、確かなんだが、そのせいかどうかしらぬが、その人の言葉の中に、純粋なキリスト教とは見られず、純粋にユダヤ宗の人とも思わぬ、何か東洋のものがはいってきてやしないかという気がするのです。

ワタシのキリスト教理解というのは、内村鑑三とか、シモ-ヌ・ヴェイユとか、さらにはドストエフスキーとかいった人たちの考えから導かれているのですが、それってやっぱり、カソリック的にかなり邪道だよなあと、我ながら思う。今読んでる、スピノザという人も、当時相当、教会側から批判されてたみたいだし、どうもワタシはそういった邪道的キリスト教が好きな人らしい(笑)

それはともかく、鈴木大拙の本を読みふけるシモ-ヌ・ヴェイユの姿に、異様に心惹かれるのですが、同時にシモ-ヌ・ヴェイユの本を読みふける90歳の鈴木大拙にも、なにか胸にくるものがある。
ワタシの周りには、気軽に話し合えるお年寄りというものがないので、本の中で「鈴木大拙お爺ちゃん」や、「小林秀雄お爺ちゃん」と、色々相談したりしてるのですが、こういう時は、本って便利だなあと心から思う。本をあまり読まない人は、お年寄りの知恵に接する機会が少ないのではないのかと、思わず心配してしまったり。昔の人たちの知恵というのは、なかなかどうして、捨てたものではないですよ? 教えて、お爺ちゃ~ん!


河内和泉さんのブログ(「お知らせなどなど」)で、「機工魔術士」が、今年の夏に発売される予定の17巻で最終巻となることを知る。
まあ、過去何度も書いたことなのですが、改めてこう言っておこう、「機工魔術士は読んどけ」。
なんというか、色々なものをもらっちゃいました。この作品が、ワタシが思う程に、あまり読まれていないのが残念でなりません・・・って、ワタシもこの作品を知ったのは、最近なんですけどね(笑)
ちょうど、U2が来日する時期でしたので、「機工魔術士」を読んでいると、なんだかあの頃のことを思い出して、時に胸がいっぱいになってしまいます。当時こんなコラを作ってたんだなあ(笑)

15巻から副題が『この世で一番正しいもの』となっているのですが、物語が、この言葉へと収束してゆく様が素晴らしいです。「あなたの言葉を受け取り、その解釈はあなたの行動から学ぶ」。その通りだ。同じ時代に尊敬する人がいて、その人から言葉を受け取り、その行動から学ぶことができる幸福は、恩寵と呼ぶべきなのでしょうか?


そうそう、ワタシは恩寵の話をしてるんだった。こうぞうさんの記事を拝見して、Graceという曲の歌詞の素晴らしさに今頃気付いたことを告白したかったんですよ(笑)
前にもどっかで書きましたが、ワタシはこの曲の存在を、ほとんど無視していて、TORAさんに叱られてしまったりもするのですが(笑)、はい、改心しました。なんだ、いい曲じゃないですか。今までずっと、この曲の良さが理解できませんでした。生き続けて行け。きっとわかって来るだろう。その通りだ。


そんな次第で、相変わらずまとまらない文章なのですが、なにはともあれ、遅まきながら誕生日おめでとう、ボノさん! そしてこうぞうさん、ありがとう!