賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

「言葉を持たない異質性」

そのころ、ぼくの先生であるラマ僧は、この土地にチベット難民の子供のためのラマ・カレッジをつくる準備をすすめていた。彼は大きな構想をもっていた。チベットの大地を追われてさまざまな国にちりぢりになったかれらの仏教は、危機に瀕していた。その仏教の学問や修行の伝統をたやさないため、というのが、カレッジのもちろんいちばん大きな目的だった。しかしラマ僧はそれだけでは不じゅうぶんだと考えていた。古めかしい伝統のやりかただけでは、現代がかかえる新しい問題にたちむかっていけるだけの柔軟性をもった仏教思想をつくっていくことができない。そのためには、このラマ・カレッジでは、さまざまな国から彼のちかくに集まってきている外国人たちを先生にむかえて、得意な分野の知識をチベット人の若者たちに教えてもらうようにするのがいいだろう。アメリカからきている大学の教授には、英語と西洋哲学を教えてもらうことにしよう。あのフランス人は歴史が得意みたいだ。さておまえだが、といって先生はぼくのほうにむきなおった。おまえは日本人だし、科学や技術のことを教えておくれ。チベット人はみんな機械音痴だからね。そのときぼくは、でも、と言いかけてやめにした。
ほんとうはそのとき、ぼくはこう言いたかったのだ。「でも、いくら日本人が科学や技術にたけているといっても、それはもともとヨーロッパ人やアメリカ人から学びとったものにすぎません。日本人の独創性なんて、大きな目で見れば、そこにはほとんどないんですよ。それよりも、ぼくたちにはもっとちがった豊かな文化があるんです。チベット人がインド人から学んだ仏教思想をもとにして、この存在の世界の意味をめぐって深めてきた思想に、まさるともおとらないような独創性にみちた文化を、ぼくたちはもっているのです。ぼくはほんとうはそれを伝えたいのです」。(中沢新一ゲーテの耳』より)