賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

『生誕の災厄』を読み返す

あらゆる罪を犯した。父親となる罪だけは除いて。
      ―――E.M.シオラン『生誕と災厄』10p


ポップマートDVDを観ていたら、昔のコトを色々思い出してきてしょうがなかったのですが、そういえばあの頃、この本を愛読してたんだよなあ、と本棚から引っ張り出してきました。
明晰な悪意によって綴られたこのアフォリズムを何遍も読んでいたというだけで、当時の自分の心境がうかがえるというものですが(笑)、今、読み返してみると、「おお、こんなことも書いてあったんだあ」と、思いがけない記述を発見したりして、なかなか面白いです。
そんな次第で今回、その面白いと思った箇所も含めて、字数制限の許す限り引用してみたいなと。うむ、年明けに相応しい前向きな企画だ(笑)






六十歳に及んで知ったことを、私は二十のころ早くも充分に知っていた。四十年という、この長長しい、なくもながの検証の歳月……13p


かつて私は、死者を前にすると、「生まれるということがこの男にとってなんの役に立ったか?」と自問したものだった。いまの私は、同じ質問を、いかなる生者を前にしてもおのが心に発している。28p


なにもわざわざ自殺するには及ばない。人間はいつも遅きに失してから自殺するのだ。46p


彼は客観的真理を嫌っていた。議論という苦役を、一貫した論法なるものを嫌っていた。証明の作業を好まず、説得する気持ちなどはさらさらなかった。他人とは、弁証法的教師の作り話にすぎない。48p


解脱はおよそ習得されるものではない。それは一文明のなかに刻みつけられているものだ。人は解脱にむかって進むのではなく、みずからの深部にそれを発見するのである。キリスト教の某宣教師が、日本に十八年も住みつきながら、あとにも先にも六十人しか改宗者を得られず、しかもそれが年寄りばかりだったと聞いて、私はひそかにそう考えた。その六十人の改宗者も実は最後には彼から離れていったという。つまり、彼らは純日本風に、悔恨もなく、心の責苦もなく、彼らの父祖たちに恥じぬ死にかたで死んでいったのだ。なにしろこの父祖たちは、蒙古襲来の国難に身を処するに際して、一切事象の空なるゆえんを、さらにはおのれ自身の空の空なるゆえんを、骨身にまで刻むことのできた人たちなのだ。69p


どんなに些細なものであっても、文章を綴らねばならぬとなれば、真の創意のまねごとぐらいは要るであろう。ところが、しかじかの文章に読者として参入するためには、たとえそれが難解きわまるものであったとしても、少々の注意力があれば充分なのだ。一枚の葉書をどうにか書き果せることのほうが、『精神現象学』を読破することよりも、創造の行為に近い。71p


音楽を熱愛することは、それだけで、すでにして一個の告白である。音楽に入れあげている見知らぬ人間のほうが、毎日のように顔をあわせてはいるが、音楽に冷淡な人間よりも、はるかに身元が割れているといってよい。78p


どうしても寝床を離れることができず、ベッドに釘づけとなったままで、記憶の変幻に身をゆだねてみる。カルパチア山脈のあたりを、幼年の私がさまよい歩くのが見えてくる。ある日、私は一匹の犬に行き会った。飼主が、おそらく厄介ばらいのつもりなのだろう。一本の木の根もとに犬をつないでおいたのだ。犬は骨が透けて見えるほど瘠せ衰え、生命のほむらはすっかり消えかけていて、私をじっと見つめるだけの力しかなかった。身じろぎもできないのだ。それでいて犬は、四つ足で立っていたのだった。92p


何か侮辱を受けるたび、仕返しの衝動を一切遠ざけてしまうために、自分が墓穴にしんと納まっているところを想像する。そういう時期が私にはあった。たちまちにして私の心は和んだものである。自分の屍骸をあまり馬鹿にしないほうがいい。時に応じて大いに役に立つ。106p


ツァラトゥストラ』の作者について、私がどう考えているか知りたいといった学生に、もうずっと前から、ニーチェとの交際はやめていると私は答えた。なぜですか、と学生は聞いた。――ニーチェがあんまり愚直に見えだしたものでね。
私には、ニーチェのすぐ夢中になる態度がいやだし、彼の熱情までが気に入らない。彼は偶像を破壊したが、別種の偶像をかわりに押し立てた。贋の偶像破壊者で、いつまでも青年じみた側面を残し、孤独な生涯を送った者に特有な、なんとも知れぬ処女性を、無垢なものを持っていた。彼は人間を遠くからしか観察していない。もっと近ぢかと寄って眺めていたら、超人などというものを思いついたり、宣伝したりはしなかったろう。この超人たるや、なんとも突飛な、グロテスクといわぬまでも滑稽きわまる幻想であり、順調に年をとる暇もなければ、解脱とか、ゆっくりと熟してゆく晴朗な嫌悪感とかを身につける暇もなかった、ある種の人間の心にしか湧き出ることのない妄想、気まぐれのたぐいであった。117p


私は門番の女房が読むようにして本を読むのが好きだ。作者になりきり、本と同化してしまうのである。ほかの読書法は、いずれも私に死体解剖者を連想させる。126p


長く生きれば生きるほど、生きたことが有益だったと思えなくなる。137p


幼虫の身分に固執するべきだった。進化を拒み、未完成に踏みとどまり、諸元素の午睡を楽しみ、胎児の恍惚に包まれて、静謐のうちに滅び去ってゆくべきであった。143p


バッハは喧嘩早く、訴訟好きで、けちで、肩書や権勢に目がなくて、うんぬん、しかじか。結構ではないか。それで何がどうしたというのか。ある音楽理論家は、死を主題とするバッハのカンタータを数えあげつつ、かつてどんな人間も、死に対してバッハほど深い郷愁を寄せた者はないという。大事なのはこれだけだ。残りはすべて伝記作家の管轄に属する。147p


毎日、つぎのように繰り返すべきである。「自分は、地球の表面を何十億と匍いまわっている生きものの一匹だ。それ以上の何者でもない」――この陳腐な呪文は、どんなたぐいの結論をも、いかなる振舞い、いかなる行為をも正当化する。遊蕩も、純潔も、自殺も、労働も、犯罪も、怠惰も、反逆も。
……かくて、人間は各自、みずからの仕業にそれ相当の理由をもつことになる。158p


エジプト人らによる福音書』のなかで、イエスは、「女たちが子を産むかぎり、男たちは死の生贄となるであろう」と宣告し、「わたしは女の作ったものを打ち壊すためにきた」とまで極限している。
グノーシス派の過激な真理志向に接していると、できることならさらに遠くまで行って、なにか前代未聞の、歴史を石化させ粉砕するような言葉を吐きたくなる。宇宙大のネロ的所業に類する言葉を、物質の域にまで達した狂気の言葉を言ってのけたくなる。159p


アメリカ・インディアンで、その一族の最後のひとりになったイシは、白人たちを恐れるあまり何年ものあいだ身を隠し、ついに万策尽きて、ある日、自発的に、一族皆殺しの張本人たちに投降した。彼はむろん一族の者と同じ処遇が待っているものと信じていた。ところが彼は大歓迎をされたのである。彼には子がなく、真に一族最後の人間だったからだ。
人類が殺されつくしたあと、あるいは単に消えてしまったあと、たったひとりの生存者が、誰に降伏すべきか分からずに地をさまよい歩く光景を、私たちは想像することができる。161p


人間は心の奥のまた奥で、意識以前に住みついていた状態へ、なんとか復帰したいと渇望している。歴史とは、そこまで辿りつくために、人間が借用している回り道にすぎない。161p


「フランス人はもう働く気をなくしちまったよ。みんな、ものを書きたがるんだからね」と、私の住むアパルトマンの門衛の女房がいった。自分がこのとき、老衰した文明一般に対して非難を投げつけているのだとは、この内儀は知らなかっただろう。174p


「あなたという方は、この前の戦争のあと人間のしたことには、全部反対という立場なのですね」と、当世風な婦人はいった。
「日付をお間違えじゃありませんか。わたしはアダムこのかた、人間のやってきたことに、全部反対なんですよ」179p


無垢な人間に出会ったりすると、そのたびに私の心は動揺し、度を失ってしまう。いったいこの男はどこからやってきたのだ? 何を探し求めているのだ? こんな人間が出現したことは、なにか痛ましい事件の前触れではないか? これが、どこから見ても自分の同類とは思えない人間を前にしたとき、私たちを捉える特殊な困惑というものだ。185p


一四四一年、フィレンチェの公会議で、異教徒、ユダヤ人、異端者、離教者らは、絶対に<永生>にはあずかれず、もし死を前にして真なる宗教に立ち戻らなければ、全員が地獄へ落ちるであろうと布告された。
カトリック教会がこんな途方もないたわごとを公言していた時代こそ、教会が真に教会だったときである。ひとつの制度は、自己ならざるものをすべて排斥する場合にしか、生気に充ちた強大なものたりえない。不幸にしてこのことは、一個の国家にも、また政治体制にも当てはまる。186p


私たちがある人物を賛美するのは、その人物に対しておおかた責任を負わずにすむときだけだ。賛美は尊敬とはなんのかかわりもない。196p


自分が、少なくとも永遠の存在ではないと知っていながら、なぜ人間は生きてゆけるのだろう。私にはどうしても理解できない。226


存在しなかったほうがいい、という考えかたは、猛烈な反論をこうむる思想の一つだ。各人は、自分を内部から見ることしかできないから、必要な人間、不可欠な人間という風にわが身を思いなしており、自分こそ一個の絶対的実在だと、ひとつの全一性だと、全一性そのものだと実感し、また認知している。おのれの存在そのものと完全に同化した瞬間から、人は神として行動する。人は神である。
内部から生きつつ、同時に自己の埒外で生きる。そのときはじめて、平静な心で、自分が存在するという偶発時は、まったく起こらなかったほうがよかった、と得心することができるのである。232p


子供のころ有名だったある人気俳優の名が、ときどき脳裡によみがえってくる。誰がいまそのスターを覚えているだろう。ながながしい哲学談義などよりも、この種の些事のほうが、時間の怖るべき実在性と非実在性とを、ともどもに教えてくれる。234p


人は動機なしに生きることができない。ところで私は動機を持っていない。そして生きている。252p