賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

とりとめのない感想

1.イエスという男

図書館から借りてきた「イエスという男」(田川建三)という本を今読んでいる。
なんといってもタイトルが良い。「人間」でなく、「男」ですよ。汗くさいといいますか、「イエスという人間」なんぞより、よっぽど人間らしいタイトルに聞こえます。なぜかこういう伝記ものですと、「人間 イエス」とか「人間 小林秀雄」とか、やたら人間をつけたがる傾向にあるのですが、そういうのをしゃらくせえなあと考える人には、このタイトルはカッコイイと思ってしまうっすよ。「世の中に人間なんていやしない、男と女がいるだけだ」と言ったのは小林秀雄でしたっけ。
 
それはともかく、田川建三という人がどんな方なのか、当然のようになにも知らないのですが、イエスという「男」に、真正面から果敢に取っ組みあっている姿がなんとも男らしい。傍で見ていて心配になるほど攻撃的な文章もあったりしますが、それだけマジだということなのでしょう。つらつら読んでいて、たとえば「良きサマリア人の譬」は知ってましたが、サマリア人の歴史的立ち位置とか全然知らなかったりするワケですよ。歴史上のイエスという見方は、生々しくって凄く面白いな。
 
しかしイエス自身にとっても、彼の生きていた周囲の民衆にとっても、サマリア差別とは形態こそ違え、根は同じ差別が重くのしかかっていた。彼らは北部パレスチナ、すなわちガリラヤ人であったのだ。(中略)だからガリラヤ人は「ユダヤ人」だった。しかし、それは服従し、順応せしめられた「ユダヤ人」であり、南部ユダヤ地方のきっすいのユダヤ人、輝けるエルサレムユダヤ人とは違っていた。ガリラヤのこの位置については、また改めて記すことにしても、イエスの活動は、決して「ユダヤ人」イエスの活動というのではなく、ガリラヤ人イエスの活動であったことは銘記すべきだろう。(46p)
 
むう、こういう視点は新鮮だなあ。コルシカ島出身のナポレオン・ボナパルトが、生粋のフランス人たちから士官学校でバカにされていたのと、ちょっと似てますかね。
と、まだ半分も読んでいないのですが、面白く読ませてもらってます。
 
最近の「君のいる町」(瀬尾公治)の展開はどーなのよ? と思い、ヤフーブログで他の人の感想を見て回っていたのですが、その中で、こちらの方の記事を拝見させてもらい、大変興味深く読ませていただきました。
ワタシは「プリンセス・ルシア」という作品は、あいにくと全く存じてないのですが、「あなたは他の漫画家さんに自分が心の中で一番大切に思っている『何か』をいいように描かれても甘んじてその作品を読めますか」という享安山人さんの問いかけは、瀬尾公治さんだけでなく、自分にも重く伝わりました。
キリスト教を題材にしたマンガ作品は、「プリンセス・ルシア」だけでなく、数多く存在し、自分の好きな作品にも該当するものがありますが、「これは、クリスチャンの人が読んだらイヤだろうなあ」という発想は、恥ずかしながら今まで微塵も思ってませんでした。「表現の自由」というものに、かなり甘えていたなあと。そういうデリカシーのない人間が、都条例のマンガ・アニメの表現規制について偉そうなコト言ったとしても、たいして意味ないなと反省する次第。
善悪の判断基準というものは、極めて相対的なものであり、絶対的な基準などないに等しく、孔子というエラい人は「中庸の徳たる、其れ到れるかな」と、的確に判断を下せる能力(中庸)を至高のものとしていますが、平々凡々の徒である我々が中庸など得るはずもなく、常に間違え続けながらも、それでも正解を求めて日々四苦八苦していかなければならない星の下にあり、聖書だの論語だのコーランだのの一言一句に拘るあまり、それを絶対基準にして人を裁こうとする愚だけは、せめて避けたいものだと思います。郷原は徳の賊なり。だからどうした。
 
昔、川原泉さんというマンガ家さんの作品をよく読んでいたのですが、いつしかすっかり読まなくなってしまっていた。その理由を、「イエスという男」で、「100匹の羊の譬」が出た時に唐突に思い出した。
川原泉さんの「笑う大天使」の中で、メインキャラの3人が、1匹の羊の為に99匹の羊を失ってしまった羊飼いを間抜けと嘲笑するシーンがあり、読んでて「あ、イヤだな」と感じ、以来川原泉さんの作品は1ページも読んでない。
この、イヤな感じはなんだろう? 魂の腐臭を感じた、というのは大袈裟かもしれないが、こういう感性、99匹の羊の為に、喜んで1匹の羊を犠牲にしようとする政治家的判断を女子高校生がいとも易々と下せることに生理的な不快感を覚えてしまったからかもしれない。少年(少女)らしい残酷さ、とはまた一味違う不人情さ。もし自分が犠牲となる1匹になったら、という想像力もなく、常に自分が優遇される立場にあるのだという、まったく根拠のない思い上がった認識に呆れてしまったからかもしれない。
 
享安山人さんとはまた異なるケースかもしれませんが、マンガを読んで「率直に言って愉快なものではありません」という気持ちになったのは、ワタシにとっては、この「笑う大天使」を読んだ時が一番近いかもしれません。
川原泉さんも、まさかそんな瑣末なことで読者を一人失ってしまったとは夢にも思わなかったことでしょう。だから川原泉さんを責める気持ちはまったく全然持ってません、ってか、そんなの当たり前か。
ただ、僕たちは、間抜けと言われようと、いつまでたっても1匹の羊の為に大地を駆け回ることを止めやしないことは伝えておきたかった。それがヒトという生き物の本性だから。「困っている人を見かけたら助けて上げなさい」という親の言葉を、子はまた自身が親になった時、我が子に伝えていくことでしょう。
 
なんとも抹香臭い話になってきて恐縮ですが、次はもっと軽い記事を書きますです。