賽ノ目手帖Z

今年は花粉の量が少ないといいなあ

Engaged Buddhism

ヴェトナムの「行動する仏教」は、功徳は寺のためだけに積むものではなくて、町や村へとひろがっていくことができると教えます。トゥはバイさんにこう説明しました。
「みんながあんまり苦しんでいるので、仏陀ご自身もじっと座っていられなくなって、人々のもとに出向いていかれたんです」
 トゥは何とみごとに説明したことでしょう。私は感動してしまいました。仏陀はもうこれ以上、お寺にじっと座っていることができなくなったのです! もちろん仏陀がそこに座っているのには理由があります。人々が彼をそこに安置したからです。しかし仏陀だってお米やバナナやお花を供えられて、ひとりさびしく座っていたくなはないでしょう。どうして仏陀や菩薩がお堂のなかに鎮座していられましょうか。薬師如来が生涯お寺にとどまっていたら、いったいだれが衆生の心身の傷をいやすのでしょうか? 観音菩薩が、苦しむ人々の叫び声を聞いて、これに応えることができたとすれば、きっといつも動きまわっていなければならなかったはずです。仏陀の弟子たちが寺にこもってばかりいたら、はたして仏陀の弟子といえるでしょうか。苦しみがあるところに仏陀たちはおられるのです。(ティク・ナット・ハン)




教会は空っぽだよ。中身のない建物だ。神の精霊がその場所を立ち去った後に、規則や統制の柱だけが残って屋根を支えているようなものだ。(ボノ)



もし男が俺の前に現れて自分はイエス・キリストだって言ったら、地階の特売場の場所を教えてやるよ。今は20世紀だから昔履いていた履物では歩き回れないだろ。もう少しシリアスなレベルで言えば、もしイエス・キリストが地上にいるんなら、たぶんサンフランシスコのゲイバーで会えるだろうね。きっとエイズに苦しむ人々を救っているよ。エイズ患者は現代の癩病者だ。紀元前と後の違いみたいに。彼らに触るな、離れて歩け。イエスが住む場所を見つけたいなら、癩病者がいるところに決まってるじゃないか。(ボノ)